画像が無いのでピャスト家の人が改宗した時の絵から切り抜いてみました
修道女っぽく見えるし…
人物像で迷っています
ミェシュコ1世妃 オダ・ディトリコヴナ
955〜1023/在位 978〜992
ドゥブワヴァを亡くしたミェシュコ1世は、翌年か翌々年にオダと再婚していますが
その方法が… The 中世! って感じ。
オダはノルドマルク辺境伯ディートリッヒの娘で、カルベという町で成長し
そこで修道女になったと考えられています。
ところが、妃を亡くしたミェシュコがやって来てオダを連れ去り(!)即再婚。
美しいとかいう噂でもたっていたのでしょうかね?
それとも前々から狙っていたとか…
たしかハンガリーでも王様が娘さんを修道院から奪ってますが(ペーテル妃ユディト)
流行り? ワイルドさのアピールとか?
オダは少なくとも3人の公子を生んでいますが、次男シュヴィエントペウク(?)は
ミェシュコ1世の存命中に亡くなっています。
ミェシュコ1世にはドゥブワヴァが生んだ長男ボレスワフ(1世)がいましたが
長男に領土全土を継承させず、オダが生んだ息子たちにも分け与えると書き記していました。
これはどうやらオダがせっついて書かせたものらしいです。
オダはミェシュコの死後、息子たちの地位がちゃんと保証されるようにしたかったんですね。
そりゃそうだろう…
異父兄が(実兄でさえ)国を継いだ後、酷い目にあってる王子たちがたくさんいるものね。
けれども、やっぱり、ボレスワフ1世はミェシュコ1世が亡くなると
オダが生んだミェシュコとランベルトと紛争を始めてます。
この争いは数週間で終わったとも3年ぐらいかかったとも言われていますが
いずれにしてもボレスワフ1世が勝利してミェシュコ1世の全ての領土を手に入れました。
オダはボレスワフ1世に追放されてドイツに戻り、クヴェードリンブルク修道院に入って
その後30年間修道女として過ごし亡くなりました。
パーソナリティがさっぱりわからず、唯一語られているエピソードが
ミェシュコにせっついて息子に領土を分けさせた、ってことになると
強欲でわがままな若妻… みたいな印象ですが、そうとも言いきれないわよね。
どうみても不利な立場にいる息子たちの将来を安泰にしてあげたいっていうのは当然の親心。
一生懸命お願いして書き残してもらったとも考えられますよね。
ポーランドにいる間以外はほぼ修道院にいて、しかも修道女として過ごしてるのですもの。
実はもの静かで控えめな人だったかもしれない…
だとしたら、連れ去ったりしないで静かに人生を送らせてあげればよかったものを…
権力欲の強い継母 ? 子供のためにと似合わぬ権力闘争に口を出した母の愛か?
どちらのタイプなのかさっぱり見えないですね。
ミェシュコとランベルトはこの争いで戦死したのか
ポーランドから追放されたかがちょっとわからないのですが
1032年に二人のどちらかの息子であるディトリックがポーランドに戻り
当時の君主ミェシュコ2世の失脚後、一部の領土を手に入れています。
1年後には奪い返されちゃうんだけどね…
他の王国の草創期同様、ポーランドもまだまだ混沌としている時代でした。
いくら王様といっても、危険が一杯の男性に嫁ぐのはいやですよねぇ…
お姫さまっていう身分も楽じゃない! って感じですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
修道女っぽく見えるし…
人物像で迷っています
ミェシュコ1世妃 オダ・ディトリコヴナ
955〜1023/在位 978〜992
ドゥブワヴァを亡くしたミェシュコ1世は、翌年か翌々年にオダと再婚していますが
その方法が… The 中世! って感じ。
オダはノルドマルク辺境伯ディートリッヒの娘で、カルベという町で成長し
そこで修道女になったと考えられています。
ところが、妃を亡くしたミェシュコがやって来てオダを連れ去り(!)即再婚。
美しいとかいう噂でもたっていたのでしょうかね?
それとも前々から狙っていたとか…
たしかハンガリーでも王様が娘さんを修道院から奪ってますが(ペーテル妃ユディト)
流行り? ワイルドさのアピールとか?
オダは少なくとも3人の公子を生んでいますが、次男シュヴィエントペウク(?)は
ミェシュコ1世の存命中に亡くなっています。
ミェシュコ1世にはドゥブワヴァが生んだ長男ボレスワフ(1世)がいましたが
長男に領土全土を継承させず、オダが生んだ息子たちにも分け与えると書き記していました。
これはどうやらオダがせっついて書かせたものらしいです。
オダはミェシュコの死後、息子たちの地位がちゃんと保証されるようにしたかったんですね。
そりゃそうだろう…
異父兄が(実兄でさえ)国を継いだ後、酷い目にあってる王子たちがたくさんいるものね。
けれども、やっぱり、ボレスワフ1世はミェシュコ1世が亡くなると
オダが生んだミェシュコとランベルトと紛争を始めてます。
この争いは数週間で終わったとも3年ぐらいかかったとも言われていますが
いずれにしてもボレスワフ1世が勝利してミェシュコ1世の全ての領土を手に入れました。
オダはボレスワフ1世に追放されてドイツに戻り、クヴェードリンブルク修道院に入って
その後30年間修道女として過ごし亡くなりました。
パーソナリティがさっぱりわからず、唯一語られているエピソードが
ミェシュコにせっついて息子に領土を分けさせた、ってことになると
強欲でわがままな若妻… みたいな印象ですが、そうとも言いきれないわよね。
どうみても不利な立場にいる息子たちの将来を安泰にしてあげたいっていうのは当然の親心。
一生懸命お願いして書き残してもらったとも考えられますよね。
ポーランドにいる間以外はほぼ修道院にいて、しかも修道女として過ごしてるのですもの。
実はもの静かで控えめな人だったかもしれない…
だとしたら、連れ去ったりしないで静かに人生を送らせてあげればよかったものを…
権力欲の強い継母 ? 子供のためにと似合わぬ権力闘争に口を出した母の愛か?
どちらのタイプなのかさっぱり見えないですね。
ミェシュコとランベルトはこの争いで戦死したのか
ポーランドから追放されたかがちょっとわからないのですが
1032年に二人のどちらかの息子であるディトリックがポーランドに戻り
当時の君主ミェシュコ2世の失脚後、一部の領土を手に入れています。
1年後には奪い返されちゃうんだけどね…
他の王国の草創期同様、ポーランドもまだまだ混沌としている時代でした。
いくら王様といっても、危険が一杯の男性に嫁ぐのはいやですよねぇ…
お姫さまっていう身分も楽じゃない! って感じですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)