“ 美人薄命 ” な王女
ルイ・フィリプ1世王女 マリー・ドルレアン
ビュルテンベルク公アレクサンドル妃
1813〜1839
ルイ・フィリプ1世とマリー・アマーリエの次女マリーは
父親であるルイ・フィリプの意向で堅実に育てられました。
芸術的な才能があったようで、彫刻や絵画に勤しんでいました。
1830年、7月革命の後ルイ・フィリプが王に即位してマリーは王女になりました。
マリーが21歳の時、王妃マリー・アマーリエは甥の両シチリア王フェルディナンド2世に
弟のレオポルドとマリーの結婚をもちかけました。
ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの問題もあり
権力の弱体化や名家の衰退と、新興の資産家
所謂ブルジョワジーの台頭とかで
王家同士の縁談がなかなかに難しくなっていたわけですね。
一応王制復古で落ち着いたように見えるフランスの王女との縁談はありがたい…
さらに大枚22万フランを費やして往年の贅沢な暮らしを保っている
オルレアン家の財力はものすごーく魅力的でした。
てなわけで、フェルディナンド2世は縁談に同意します。
しかし、ルイ・フィリプは決して市民に大歓迎で迎えられた王ではなかったのですね。
7月革命でクーデターを起こした側の、共和制の国にしたいという意向に反して
議会でブルジョワ議員たちに選ばれた王です。
昔ながらの王党派ではなく、立憲主義を目指す自由派に押されて王になっています。
ですので、王座は安泰というわけでなく、各地でちょこちょこ暴動が起きています。
マリーとレオポルドの結婚が決められた年にも暴動は起きました。
フェルディナンド2世は、フランス王家の財産が、またまた革命で無くなる前に…と
焦りまして、一刻も早くマリーをイタリアに送るよう要求しました。
持ちかけたのはフランス側でしたが、ルイ・フィリプは「無分別すぎ!」と怒り
この縁談は破談になります。
24歳の時、ビュルテンベルク公子アレクサンドルと結婚しました。
アレクサンドルの家系は傍系でたいした家柄ではなかったのですけれども
下記の家系図を見ていただくとおわかり頂けますように
英国王家、ベルギー王家と繋がりがあります。
省略したけど、ポルトガル王フェルナンド2世や
ロシア皇帝アレクサンドル1世やニコライ1世とも繋がりがあるという
「◯◯の親戚」でかなりポイントが稼げる花婿候補でした。
姉のルイーズが、2年前にベルギー王レオポルド1世と結婚していまして
そこから持ち上がった縁談のようです。
結婚から4年後、結核が悪化して療養のためピサに向かいました。
けれども体調は回復しなかったようです。
弟のヌムール公ルイは、両親の指示で付き添うためにマリーの後を追いましたが
到着した時にはマリーは瀕死の状態でした。
それでも間に合ってよかった… 家族に看取られ25歳で亡くなりました。
美術が好きで自らも絵画を描いていたというマリーの作品は
ドルトレヒト美術館(オランダ)に残っているそうです。
肖像画を載せるにあたり画像検索して何枚か肖像画を見ましたが、どれもお美しい…
けっこうリアルですし、本当に綺麗な方だったのではないかと思われます。
ただ、お美しいわりにはエピソードが少ないですね。
若くして亡くなっているからでしょうか?
落ち着いた雰囲気を漂わせていて “ フランス王家 ” という言葉から連想される
華美で浮ついたイメージとはかけ離れています。
お母様のマリー・アマーリエの肖像画と見比べると、同時代? って思っちゃうわ。
そんなわけで、現代にの女性と言っても違和感の無い肖像画をもう1枚載せときます。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
ルイ・フィリプ1世王女 マリー・ドルレアン
ビュルテンベルク公アレクサンドル妃
1813〜1839
ルイ・フィリプ1世とマリー・アマーリエの次女マリーは
父親であるルイ・フィリプの意向で堅実に育てられました。
芸術的な才能があったようで、彫刻や絵画に勤しんでいました。
1830年、7月革命の後ルイ・フィリプが王に即位してマリーは王女になりました。
マリーが21歳の時、王妃マリー・アマーリエは甥の両シチリア王フェルディナンド2世に
弟のレオポルドとマリーの結婚をもちかけました。
ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの問題もあり
権力の弱体化や名家の衰退と、新興の資産家
所謂ブルジョワジーの台頭とかで
王家同士の縁談がなかなかに難しくなっていたわけですね。
一応王制復古で落ち着いたように見えるフランスの王女との縁談はありがたい…
さらに大枚22万フランを費やして往年の贅沢な暮らしを保っている
オルレアン家の財力はものすごーく魅力的でした。
てなわけで、フェルディナンド2世は縁談に同意します。
しかし、ルイ・フィリプは決して市民に大歓迎で迎えられた王ではなかったのですね。
7月革命でクーデターを起こした側の、共和制の国にしたいという意向に反して
議会でブルジョワ議員たちに選ばれた王です。
昔ながらの王党派ではなく、立憲主義を目指す自由派に押されて王になっています。
ですので、王座は安泰というわけでなく、各地でちょこちょこ暴動が起きています。
マリーとレオポルドの結婚が決められた年にも暴動は起きました。
フェルディナンド2世は、フランス王家の財産が、またまた革命で無くなる前に…と
焦りまして、一刻も早くマリーをイタリアに送るよう要求しました。
持ちかけたのはフランス側でしたが、ルイ・フィリプは「無分別すぎ!」と怒り
この縁談は破談になります。
24歳の時、ビュルテンベルク公子アレクサンドルと結婚しました。
アレクサンドルの家系は傍系でたいした家柄ではなかったのですけれども
下記の家系図を見ていただくとおわかり頂けますように
英国王家、ベルギー王家と繋がりがあります。
省略したけど、ポルトガル王フェルナンド2世や
ロシア皇帝アレクサンドル1世やニコライ1世とも繋がりがあるという
「◯◯の親戚」でかなりポイントが稼げる花婿候補でした。
姉のルイーズが、2年前にベルギー王レオポルド1世と結婚していまして
そこから持ち上がった縁談のようです。
結婚から4年後、結核が悪化して療養のためピサに向かいました。
けれども体調は回復しなかったようです。
弟のヌムール公ルイは、両親の指示で付き添うためにマリーの後を追いましたが
到着した時にはマリーは瀕死の状態でした。
それでも間に合ってよかった… 家族に看取られ25歳で亡くなりました。
美術が好きで自らも絵画を描いていたというマリーの作品は
ドルトレヒト美術館(オランダ)に残っているそうです。
肖像画を載せるにあたり画像検索して何枚か肖像画を見ましたが、どれもお美しい…
けっこうリアルですし、本当に綺麗な方だったのではないかと思われます。
ただ、お美しいわりにはエピソードが少ないですね。
若くして亡くなっているからでしょうか?
落ち着いた雰囲気を漂わせていて “ フランス王家 ” という言葉から連想される
華美で浮ついたイメージとはかけ離れています。
お母様のマリー・アマーリエの肖像画と見比べると、同時代? って思っちゃうわ。
そんなわけで、現代にの女性と言っても違和感の無い肖像画をもう1枚載せときます。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)