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Channel: まりっぺのお気楽読書
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フランス王アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー

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父王の(浮気な)血をひく王女
アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃

1606〜1663

子供の影で王権を行使していたと言われるカトリーヌ・ド・メディシスですが
16歳で亡くなったフランソワ3世とメアリー・スチュアートにはお子様がいませんでした。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュには
マリー・エリザベートという王女が生まれましたファが6歳で亡くなりました。
アンリ3世とルイーズ・ド・ロレーヌにもお子様がいませんでした。

結局王座は王女マルゴの婿アンリ4世の手に渡ります。

アンリ4世はガブリエル・デストレを筆頭に、たくさんの愛妾を持っていたことで有名ですが
行動力・人柄に優れ思慮深い人で、人気が高い王様でした。
一人目の妃マルゴとの間にはお子様ができませんで
二人目の妃マリー・ド・メディシスとの間に三男三女を授かりました。

長男は後のルイ13世です。
長女エリザベートはスペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリーはイングランド王チャールズ1世に嫁ぎました。

       
次女クリスティーヌは13歳でサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオに嫁ぎました。
しかし彼女はこの結婚に満足できなかったようですね。
姉のエリザベートばかりか妹のアンリエッタまで王妃になるなんて!

クリスティーヌは妹に負けるもんか!とサヴォイア宮廷にフランス式を持ち込み
イングランド宮廷と張り合いました。
そのためには宮殿だって建て直すぜ!

しかし王妃ではなく、公国の妃という現実はどうにもなりませんね…
そこで夫にキプロスとイェルサレムの王様になってちょうだいよ! と
うるさくけしかけておりました。
男性の皆様、「課長になってよ! 次は部長になってよ!その次は専務になってよ!!」なんて
口うるさく言われるのはつらいですよね。

結局ヴィットーリオ・アメデーオ1世は王になることなく1637年に亡くなりまして
クリスティーヌは5歳の息子フランチェスコの摂政になりました。
翌年フランチェスコが亡くなり、続いて4歳のカルロ・エマヌエーレ2世の摂政になります。

クリスティーヌは移り気で軽薄な女性と言われています。
その上浮気性で多数の愛人を持っておりました。
摂政とは名ばかりで政治はそっちのけ… 評判は芳しくなかったようです。

そんな母親が幼王の摂政に就いた国… もちろんもめ事がおこりますってば。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟マウリッツォとトンマーゾはスペインの力を借りて、
クリスティーヌはフランスの力を借りて、継承戦争が4年ほど続きました。

この戦いはクリスティーヌの勝利に終わりました。
なんだかんだあっても息子のために領土を守り抜いたことは賞讃に値しますね。
しかもフランス王家の力が領土内で強まることも防いでいました。
やればできる子だったのですね… と思いたいが一方では…

カルロ・エマヌエーレ2世が成人に達するとクリスティーヌは摂政の座を退きましたが
実際は権力を手放しませんでした。
私生活はやりたい放題で、愛人たちが侍っておりました。
その中には継承戦争で敵だった義弟マウリッツォも含まれていた模様…
とにかくハンサムで逞しい男性がお好きだったようです。

息子カルロ・エマヌエーレ2世がクリスティーヌの弟オルレアン公ガストンの
公女フランソワーズと結婚した年に亡くなりました。
生きていたら嫁姑問題が起きかねなかったですよね?
ある意味潔い逝き方と言えましょう。
          
その後はフランス王家とこんな感じで繋がってまいります。
手を抜いてすみません… 見てもらった方が解り易いと思いまして…
         
美男子を侍らせてるあたりエカチェリーナ2世と同じなんですけどね。
エリザベス1世も何人か恋人がいましたよね。
政治をきっちりやるか、絶対的な権力を持って反対勢力を押さえ込んでいたら
悪評ばかりがたつこともなかったでしょうに… きっといいところもあったと思うよ。

いよいよブルボン家末期にさしかかってまいります。
長〜い時間かかっていたフランス王女編も終わりが見えてきましたね! ふ〜う

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

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