さすがハプスブルク家! 子だくさん王妃
カジミェシュ4世妃 エルジェピタ・ラクシャンカ
1436~1505/在位 1454~1492
ヴワディスワフ2世を継いだヴワディスワフ3世はハンガリー王女エルジェーベトと
婚約したものの、未婚で亡くなりました。
その後を継いだのはヴワディスワフ3世の弟カジミェシュ4世です。
王座に就くのを渋っていたんだけど、母后ゾフィア・ホルシャンスカに説得され
1447年に王になったので、王位は3年空いていました。
王、いなくてもよくないか? って話しになっちゃいますよね?
さて、そんな影響力大の母ゾフィアの力を弱めたとされる嫁エルジェピタ。
エルジェピタは、ヴワディスワフ3世と婚約していたエルジェーベトが
ハプスブルク家のドイツ王アルブレヒト2世との最初の結婚で生んだ王女です。
ドイツ王というのは次期神聖ローマ皇帝候補と考えていただければよいかと思います。
実はエルジェピタの生年ははっきりしていなくて、1436年から39年の間とされています。
エルジェピタと姉のアンネ、ヴワディスワフ3世とカジミェシュ、二組の縁談を
一気にまとめちゃおう!とポーランドの使節がジギスムントを訪ねたのが1436年で
エルジェピタに1435年生まれの兄ゲオルグがいることから1436年説が濃厚らしい。
生まれてすぐに縁談ですか… この縁談はまとまりませんでした。
いずれにしてもエルジェピタが生まれてしばらくすると、父アルブレヒトが戦死します。
ハンガリー王座はヴワディスワフ3世に持っていかれてしまいました。
1452年にカジミェシュとエルジェピタの縁談をまとめようと
使節を送ったのはまたまたポーランドでした。
この時は縁談がまとまって、二人は1454年に結婚しました。
エルジェピタは900人の従者を連れて来たらしい…
カジミェシュは、エルジェピタがあまり魅力的でないと聞かされていて
結婚を考え直そうとしていましたが、議会が許してくれませんでした。
この先が不安ですね… 王にほっとかれる王妃はけっこういますから…
けれどもこの結婚はとても幸せなものだったようです。
エルジェピタは毎年のように妊娠していて、13人のお子を生んでいます。
後年 “ 汝は結婚せよ ” と言われるようになる多産家系のハプスブルク家ですが
この頃からすでにそうだったんでしょうかね?
結婚を考え直さなくてよかったね、女性は見た目じゃないんだってば!
エルジェピタはカジミェシュに対して影響力を持っていたらしいのですが
政治的に目立とうとはしませんでした。
そのかわりといってはなんですが、王女たちの結婚にはかなりアクティブでした。
ここらへんもハプスブルク家っぽいね。
1457年、エルジェピタの弟ウラースローが後継ぎ無しに亡くなると
ハンガリーはマーチャーシュ1世が王座につき
エルジェピタの母エルジェーベトが摂政になりました。
ボヘミアは貴族ゲオルギーが王に選出されています。
エルジェピタは一家をあげてボヘミアとハンガリーの王位を要求します。
結果的には子供たちのうち11人が成人に達し、王子たちが各国の王位を継ぎます
王女たちも各国に嫁いでヤゲウォ家は躍進します。
そんなわけで、エルジェピタは “ 王たちの母 ” “ ヤゲウォ家の母 ” なんて呼ばれてました。
1492年にカジミェシュ4世が亡くなると、エルジェピタはドイツの芸術家を招いて
夫の墓所と棺を作りました。
その後は “ 国王の母 ” という威光を背負って政治的に目立つ… なんてことはなく
末の娘二人とクラクフで過ごしました。
1504年に病に倒れたのですが、なんの病気かはっきりしていないそうです。
翌年亡くなり、ヴァヴェル大聖堂の、夫と幼くして亡くなった二人の娘の隣に葬られました。
1496年に六女バルバラを結婚させていましたが
七女エルジェピタの縁談はまとめてなかったので、心残りだったでしょうね。
エルジェピタ(娘)はエルジェピタ(母)の死から10年後に、33歳で嫁いでいます。
縁談のこととかけっこうはしょりましたけど、お家のことは一生懸命やって
夫を支え、夫の治世をサポートし、政治には口出さないって、王妃の鏡よ!
もっと有名でもいい王妃ですよね。 そりゃあ、悪女より面白味はないかもしれないが…
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとこと園芸コーナー
だんなさんがFrancfrancで買って来て大切に育てているワイルドストロベリーの鉢をひっくり返して
ものすごく反省しました。 だって小さいんですもの…(言い訳です) 芽が出てよかったよぉ
ところで小さい白いツブツブはなんですの? 栄養剤ならよいが…
カジミェシュ4世妃 エルジェピタ・ラクシャンカ
1436~1505/在位 1454~1492
ヴワディスワフ2世を継いだヴワディスワフ3世はハンガリー王女エルジェーベトと
婚約したものの、未婚で亡くなりました。
その後を継いだのはヴワディスワフ3世の弟カジミェシュ4世です。
王座に就くのを渋っていたんだけど、母后ゾフィア・ホルシャンスカに説得され
1447年に王になったので、王位は3年空いていました。
王、いなくてもよくないか? って話しになっちゃいますよね?
さて、そんな影響力大の母ゾフィアの力を弱めたとされる嫁エルジェピタ。
エルジェピタは、ヴワディスワフ3世と婚約していたエルジェーベトが
ハプスブルク家のドイツ王アルブレヒト2世との最初の結婚で生んだ王女です。
ドイツ王というのは次期神聖ローマ皇帝候補と考えていただければよいかと思います。
実はエルジェピタの生年ははっきりしていなくて、1436年から39年の間とされています。
エルジェピタと姉のアンネ、ヴワディスワフ3世とカジミェシュ、二組の縁談を
一気にまとめちゃおう!とポーランドの使節がジギスムントを訪ねたのが1436年で
エルジェピタに1435年生まれの兄ゲオルグがいることから1436年説が濃厚らしい。
生まれてすぐに縁談ですか… この縁談はまとまりませんでした。
いずれにしてもエルジェピタが生まれてしばらくすると、父アルブレヒトが戦死します。
ハンガリー王座はヴワディスワフ3世に持っていかれてしまいました。
1452年にカジミェシュとエルジェピタの縁談をまとめようと
使節を送ったのはまたまたポーランドでした。
この時は縁談がまとまって、二人は1454年に結婚しました。
エルジェピタは900人の従者を連れて来たらしい…
カジミェシュは、エルジェピタがあまり魅力的でないと聞かされていて
結婚を考え直そうとしていましたが、議会が許してくれませんでした。
この先が不安ですね… 王にほっとかれる王妃はけっこういますから…
けれどもこの結婚はとても幸せなものだったようです。
エルジェピタは毎年のように妊娠していて、13人のお子を生んでいます。
後年 “ 汝は結婚せよ ” と言われるようになる多産家系のハプスブルク家ですが
この頃からすでにそうだったんでしょうかね?
結婚を考え直さなくてよかったね、女性は見た目じゃないんだってば!
エルジェピタはカジミェシュに対して影響力を持っていたらしいのですが
政治的に目立とうとはしませんでした。
そのかわりといってはなんですが、王女たちの結婚にはかなりアクティブでした。
ここらへんもハプスブルク家っぽいね。
1457年、エルジェピタの弟ウラースローが後継ぎ無しに亡くなると
ハンガリーはマーチャーシュ1世が王座につき
エルジェピタの母エルジェーベトが摂政になりました。
ボヘミアは貴族ゲオルギーが王に選出されています。
エルジェピタは一家をあげてボヘミアとハンガリーの王位を要求します。
結果的には子供たちのうち11人が成人に達し、王子たちが各国の王位を継ぎます
王女たちも各国に嫁いでヤゲウォ家は躍進します。
そんなわけで、エルジェピタは “ 王たちの母 ” “ ヤゲウォ家の母 ” なんて呼ばれてました。
1492年にカジミェシュ4世が亡くなると、エルジェピタはドイツの芸術家を招いて
夫の墓所と棺を作りました。
その後は “ 国王の母 ” という威光を背負って政治的に目立つ… なんてことはなく
末の娘二人とクラクフで過ごしました。
1504年に病に倒れたのですが、なんの病気かはっきりしていないそうです。
翌年亡くなり、ヴァヴェル大聖堂の、夫と幼くして亡くなった二人の娘の隣に葬られました。
1496年に六女バルバラを結婚させていましたが
七女エルジェピタの縁談はまとめてなかったので、心残りだったでしょうね。
エルジェピタ(娘)はエルジェピタ(母)の死から10年後に、33歳で嫁いでいます。
縁談のこととかけっこうはしょりましたけど、お家のことは一生懸命やって
夫を支え、夫の治世をサポートし、政治には口出さないって、王妃の鏡よ!
もっと有名でもいい王妃ですよね。 そりゃあ、悪女より面白味はないかもしれないが…
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとこと園芸コーナー
だんなさんがFrancfrancで買って来て大切に育てているワイルドストロベリーの鉢をひっくり返して
ものすごく反省しました。 だって小さいんですもの…(言い訳です) 芽が出てよかったよぉ
ところで小さい白いツブツブはなんですの? 栄養剤ならよいが…