後世まで国民のよりどころだった妃
ヘンリク1世妃 聖ヤドヴィカ・シュラスカ
1174〜1243/在位 1232〜1238
Illustratorが復活したので久々に家系図を作成…なのですが
間があきすぐててポーランドの流れを忘れちゃってるよぉ
思い出し思い出し書いてみます。
ヘンリク1世はしばらくぶりにポーランドを拡大した君主として名高いようですが
その妃もその前後の妃と比較すると高名です。
父親はメラニア公ベルトルド4世で、妹にフランス王フィリプ2世妃アニェスと
ハンガリー王アンドラーシュ2世妃ゲルトルードがいます。
この二人とはあまり性格が似ていないみたいですが、末の妹のマティルダはヤドヴィカと
一緒にキッツィンゲンの修道院で教育を受けていて後にそこで修道院長になっています。
ちなみにゲルトルードの王女でヤドヴィカの姪にあたるエルジェーベトも聖人ですね。
本当は信仰をしながら静かな生活を送りたかったんじゃないかと思うのだが
12歳という若さでヘンリクに嫁ぐことになってしまいました。
その後は君主の座をめぐるゴタゴタに巻き込まれていくわけなのですが
長くなるのでヤドヴィカに関係してることだけ書きますと…
1229年にヘンリクは対立するモスヴィア公コンラト1世にプウォツク城で
捕らえられるのですが、タドヴィカは自らプウォツクに出向いて救出しました。
1232年にヘンリクが最高公になると、ノヴゴロドのアウグスティン派や
テンプル騎士団に寄付をするなどして夫の治世を助けました。
妻としての務めを果たすかたわら、宗教活動も活発に行っていました。
1202年にヘンリクにお願いしてトシェブニツァ教会を建てています。
ヘンリク1世は1238年に亡くなるとこの教会に葬られました。
この教会は現在は聖ヤドヴィカ教会と呼ばれているようです。
ヘンリク1世とヤドヴィカには7人の子女が生まれていますが
5人が幼かったり若くして亡くなっています。
公子ヘンリク2世は父親の後を継ぎましたが、1241年にモンゴルの侵攻にあった際
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の応援を待っているうちに戦死しました。
ヤドヴィカはヘンリク1世の死後宮廷に残って勢力をふるうようなことはせず
三女ゲルトルードが院長を務めるトシェブニツァ修道院に移り住みました。
宗教活動は衰えず、神聖ローマ帝国から聖職者を招いてシロンスクに居住区を造ったり
ヘンリク2世妃アンナと共にレグニツァにベネディクト派の修道院を建てています。
ヘンリク1世とヤドヴィカはとても敬虔な生活を送っていました。
ヤドヴィカは常に貧しい人を助ける活動を行い、全財産を教会に寄付しました。
言い伝えによるとヤドヴィカは冬でも裸足で
ヴロツワフの司教に靴をはくように勧められたということです。
ヤドヴィカは1243年に亡くなり夫と同じトシェブニツァ教会に葬られました。
列聖って、死後けっこうたってから、たとえば100年とか200年とか経ってから
されるものだと思っていたら、ヤドヴィカは1267年にされています。
これはヘンリク2世とアンナの公子でザルツブルクの大司教だった
孫のヴワディスワフが推したらしいですよ。
時は流れて、1742年にプロシアのフリードリヒ2世がシロンスクを併合しましたが
1773年にはベルリンにシロンスクの上流社会の移民たちのために
聖ヤドヴィカ聖堂が建てています。
聖人だけあって肖像画がたくさんあるので、もう1枚の載せとくね。
いつまでたってもポーランドのカトリック信者のよりどころだったのですね。
強いカリスマ性や存在感で国を守った妃のエピソードはよく取り上げられますね。
それはそれで、もちろん賞讃に値するのでしょうが
慈愛の力で国民を守ろうとした妃たちのことも忘れてはなりませんね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
録画してた韓流フォンデュを見てたらチョ・ヨンピルのライブシーンがあったのよぉ
『Hello』が流行ったのは知っていたが、激しく動きまわる姿を見てビックリした! 過去の日本でのイメージが強すぎて…
ヘンリク1世妃 聖ヤドヴィカ・シュラスカ
1174〜1243/在位 1232〜1238
Illustratorが復活したので久々に家系図を作成…なのですが
間があきすぐててポーランドの流れを忘れちゃってるよぉ
思い出し思い出し書いてみます。
ヘンリク1世はしばらくぶりにポーランドを拡大した君主として名高いようですが
その妃もその前後の妃と比較すると高名です。
父親はメラニア公ベルトルド4世で、妹にフランス王フィリプ2世妃アニェスと
ハンガリー王アンドラーシュ2世妃ゲルトルードがいます。
この二人とはあまり性格が似ていないみたいですが、末の妹のマティルダはヤドヴィカと
一緒にキッツィンゲンの修道院で教育を受けていて後にそこで修道院長になっています。
ちなみにゲルトルードの王女でヤドヴィカの姪にあたるエルジェーベトも聖人ですね。
本当は信仰をしながら静かな生活を送りたかったんじゃないかと思うのだが
12歳という若さでヘンリクに嫁ぐことになってしまいました。
その後は君主の座をめぐるゴタゴタに巻き込まれていくわけなのですが
長くなるのでヤドヴィカに関係してることだけ書きますと…
1229年にヘンリクは対立するモスヴィア公コンラト1世にプウォツク城で
捕らえられるのですが、タドヴィカは自らプウォツクに出向いて救出しました。
1232年にヘンリクが最高公になると、ノヴゴロドのアウグスティン派や
テンプル騎士団に寄付をするなどして夫の治世を助けました。
妻としての務めを果たすかたわら、宗教活動も活発に行っていました。
1202年にヘンリクにお願いしてトシェブニツァ教会を建てています。
ヘンリク1世は1238年に亡くなるとこの教会に葬られました。
この教会は現在は聖ヤドヴィカ教会と呼ばれているようです。
ヘンリク1世とヤドヴィカには7人の子女が生まれていますが
5人が幼かったり若くして亡くなっています。
公子ヘンリク2世は父親の後を継ぎましたが、1241年にモンゴルの侵攻にあった際
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の応援を待っているうちに戦死しました。
ヤドヴィカはヘンリク1世の死後宮廷に残って勢力をふるうようなことはせず
三女ゲルトルードが院長を務めるトシェブニツァ修道院に移り住みました。
宗教活動は衰えず、神聖ローマ帝国から聖職者を招いてシロンスクに居住区を造ったり
ヘンリク2世妃アンナと共にレグニツァにベネディクト派の修道院を建てています。
ヘンリク1世とヤドヴィカはとても敬虔な生活を送っていました。
ヤドヴィカは常に貧しい人を助ける活動を行い、全財産を教会に寄付しました。
言い伝えによるとヤドヴィカは冬でも裸足で
ヴロツワフの司教に靴をはくように勧められたということです。
ヤドヴィカは1243年に亡くなり夫と同じトシェブニツァ教会に葬られました。
列聖って、死後けっこうたってから、たとえば100年とか200年とか経ってから
されるものだと思っていたら、ヤドヴィカは1267年にされています。
これはヘンリク2世とアンナの公子でザルツブルクの大司教だった
孫のヴワディスワフが推したらしいですよ。
時は流れて、1742年にプロシアのフリードリヒ2世がシロンスクを併合しましたが
1773年にはベルリンにシロンスクの上流社会の移民たちのために
聖ヤドヴィカ聖堂が建てています。
聖人だけあって肖像画がたくさんあるので、もう1枚の載せとくね。
いつまでたってもポーランドのカトリック信者のよりどころだったのですね。
強いカリスマ性や存在感で国を守った妃のエピソードはよく取り上げられますね。
それはそれで、もちろん賞讃に値するのでしょうが
慈愛の力で国民を守ろうとした妃たちのことも忘れてはなりませんね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
録画してた韓流フォンデュを見てたらチョ・ヨンピルのライブシーンがあったのよぉ
『Hello』が流行ったのは知っていたが、激しく動きまわる姿を見てビックリした! 過去の日本でのイメージが強すぎて…