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Channel: まりっぺのお気楽読書
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フランス王ジャン2世王女 ジャンヌ

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ジャン2世の王女たち、全員まとめていってみよー!
ジャン2世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ナヴァラ王カルロス2世妃

1343〜1373/在位 1352〜1373

“ 善良王 ” ジャン2世は2回結婚しています。
最初の妃ボンヌ・ド・リュクサンブールにはシャルル5世を含む
4人の王子がたて続けに生まれました。
長年フランス王家を悩ませていた後継ぎ問題はほぼ解決かしら? 良かったね

5人目に生まれたのが長女ジャンヌで、その後は王女が4人続きました。
           
ジャンヌはブラバント公ジャンと婚約したのですが実現しませんでした。
9歳で11歳年上のカルロス2世と結婚しました。

子供は後のカルロス3世を含む7人が生まれました。
次女ファナはイングランド王ヘンリー4世妃になります。

ジャン2世の次女はマリー・ド・フランス(1344〜1404)です。
バー伯ロベール1世と20歳の時に結婚しました。
こちらも11人と子だくさんです。
         
次女ヨランダが、フィリプ6世王女ジャンヌの婚約者だった
アラゴン王子ファン(1世)の妃になりました。

ジャン2世の三女アニェスと四女マルグリートはともに4歳で亡くなりました。

五女がイザベル・ド・フランス(1348〜1372)です。
12歳の時、サヴォア伯アメデーオ6世の仕切りで
後に初代ミラノ公となるジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚しました。
三女ヴァレンティナがオルレアン公ルイ1世妃になります。
6人目の子供に当たるガリオの出産で、24歳の時に亡くなりました。
         
ボンヌ・ド・リュクサンブールは1349年に亡くなり
ジャン2世は翌年ジャンヌ・ドーベルニュと再婚しまして、一男二女が生まれています。

六女ブランシュ、七女カトリーヌともに生まれてすぐ亡くなりました。

ジャン2世には1338年から1353年にわたって12人のお子様が生まれてるんですが
3人を除いて年子なのよ

育てるのは乳母とか養育係とか侍女、小間使いなどなどがいるからいいとしても
生む方の身になってほしい!! って気がしません?
て、私は生んだことがないんだけどね… そう思っちゃった。

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王シャルル5世王女 カトリーヌ

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             肖像画が無いのでお母様のジャンヌ・ド・ブルボン

悲劇の誕生と生涯
シャルル5世王女 カトリーヌ・ド・フランス
モンパンシエ伯ジャン夫人

1378〜1388

王妃ジャンヌ・ド・ブルボンが忌まわしい血筋を受け継いでいたせいか
はたまた、本人が子供の頃に患った病のせいか、シャルル5世のお子様たちは
シャルル6世とオルレアン公ルイ1世を除いて7人が幼年で亡くなっています。

王女は5人生まれましたが、長女ジャンヌは3歳、次女ボンヌは生後すぐ
三女マリーは7歳、四女イザベルは3歳で亡くなりました。

ジャンヌ・ド・ブルボンの精神はイザベルを生むあたりから悪化したと言われています。

五女カトリーヌの出産の時、ジャンヌ・ド・ブルボンは医師の指示に背いて入浴し
出産後に亡くなりました。

          

シャルル5世はかなりのショックを受け、再婚もしませんでしたし
亡くなるまでダメージから立ち直れなかったと言われています。

カトリーヌはわずか8歳で、15歳年上のモンパンシエ伯ジャンと結婚しました。
しかし、姉たちのように10歳で亡くなってしまいました。

カトリーヌが生まれた時には、すでに姉たちは亡くなっていました。
唯一の王女だし、8歳まで成長したのだから、手元においておきたいというのが
親心じゃないの? と思ったのですが、もしかして…

愛する王妃が命を落とす原因となった娘を見るのが嫌だったのかしら?
早く嫁にやって見ないようにしようなんて考えちゃったのかしら?
そういう物語ってよくありますよね?
小説の読み過ぎ? ドラマの見過ぎ?

でも実際はシャルル5世は亡くなっていましたんで
兄のシャルル6世、あるいは摂政あたりのお考えだと思います。

シャルル5世が生きていたら状況は違ったかもね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

『魅せられて四月』映画にぴったり!の夢物語

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THE ENCHANTED APRIL 
1922年 エリザベス・フォン・アーニム

本棚を整理していたら見つけた一冊です。
たぶん映画化された時に買っていたんでしょうけど
作家は知らないし、内容はまったく覚えてないし… というわけで再読してみました。

で、前書きを読んで驚いた エリザベス・フォン・アーニムは
私の大好きな作家キャサリン・マンスフィールドの従姉妹だそうです。
期待が膨らみましたよ!

そして期待はずれでしたよ〜ん

出だしは嫌いじゃなかったんですけどね…

夫や夫の家族に見下され、毎日の家事に疲れた主婦ロッティは
ある日買い物に向かう途中でイタリアの古城を貸し出すという広告を見かけます。
「夢みたいな話」とは思ったものの、やはりその広告に目を留めていた
初対面のローズという女性を、衝動的に誘ってしまいました。

ローズは夫の職業(有名な愛妾の伝記作家)を恥じていて
宗教活動に身を投じています。
かなり迷ったのですが、ロッティの熱気に圧されてその気になりました。

二人は賃貸料をまかなおうと、同行者を募りました。
応募してきたのは二人、過去の栄光に浸っている気難しいフィッシャー夫人と
孤独を求めている美しい貴婦人のキャロライン・デスターです。

年齢も境遇も趣向もまったく違う4人の女性はイタリアへと旅立ちます。

サン・サルヴァトーレの古城は素晴らしい眺めの心地よい所でした。
しかし、4人の旅人は気が合わず、話もかみあわず、ぎくしゃくした日々を送ります。

という感じでスタートする物語なんですけどね。

その後、ロッティを従順な家政婦みたいに思っていたご主人メラーシュと
教会のことにかかりきりのローズをまったく省みなかったご主人のフレデリックが登場。

メラーシュは妻の勝手にブリブリ怒りながらも、弁護士の自分に有利な相手がいるかも、と
期待してやって来ました。
フレデリックは以前からキャロラインに魅せられていて
まさか妻がいるとは思わずに現れてビックリ! です。

さらに古城の持ち主ブリッグスも古城に顔を出しました。
彼はロンドンで一度自分を訪ねて来たローズのことが印象に残っていました。

歪み合うというよりいつまでも理解し合えない女性たちのもとに
何だか不埒な思惑を抱えた男性が集まって… さぁ、物語はどうなる?
もう、ものすごーく良い感じに展開していきますよ

なんというか… 屈託とか憂いとがほとんど感じられない話なのよね。

風光明媚で雰囲気満点な異国へ行きゃあ、誰もがハッピー!
閉ざしていた心を開けばみんなが笑顔!!
妻が美しく見え、夫が頼もしく思えて、冷めていた夫婦愛も甦るってどうよ?

確かに旅行に出かける人は出かけない人より寿命が長いといいますが
このストーリーのご陽気さはどうかと思うよ。

でも、景色もキレイそうだし、(フィッシャー夫人以外は)美しいみたいだから
映像で見るにはもってこいかもしれないですね。
映画はハッピーエンドの方が、見終わって気が重くならず楽しめますもんね。

女性が輝きを取り戻し、前向きに生きていくきっかけを掴むお話しです。
いいですね! 決して貶すつもりはございません。
マンスフィールドの従姉妹だという一点に期待を寄せた私が悪うございました。

フランス王シャルル6世王女 ジャンヌ

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知られざる女傑
シャルル6世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ブルターニュ公ジャン6世妃

1391〜1433

悲劇の狂王シャルル6世と、悪妻の代名詞みたいな王妃イザボー・ド・ヴァビエール
12人のお子様を授かりました。
ま、後半はシャルル6世の子だかどうだか怪しいんだけどね…

王女は6人です。
長女ジャンヌは2歳で亡くなっています。
次女イザベルは7歳でイングランド王リチャード2世妃になりましたが
20年の薄幸な生涯を送りました。

ジャンヌは三女です。
         
お姉様同様早く結婚させられました。
5歳ですと!!

ジャンヌが嫁いだ当時、ブルターニュは継承戦争のまっただ中でした。
この戦争は延々と続くんですけど、一応は1365年にジャン6世の勝利で決着したのね。

しかし、敵方のパンティエーブル伯は、ブルターニュの継承権と領地を
放棄しようとはしませんでした。
1420年にジャン6世をシャントソーの式典に招くと、やって来た彼を捕らえて
「ジャン6世は死亡した」という噂を流しました。

なんでもジャン6世は平和主義者だったみたい… ホイホイ行っちゃうからこんなことに…

ジャンヌはブルターニュの全ての貴族に招集をかけると徹底抗戦にでます。
最後にはパンティエーブル伯の未亡人マルグリートを捕らえるとジャンを自由の身にし
争いにも勝利を収めました。

夫の(偽の)死を報せられても勇猛果敢に敵に立ち向かうとは…立派ですね。
ブルターニュ領ではパンティエーブル伯家を支持する声が多かったというのに。

これもひとえに愛する息子をブルターニュ公にするためだったといいます。
母親の愛をあまり知らずに育ったのではないかと思われるジャンヌですが
強い母性愛を持っていたようですね。



母親の罪を償った王女
シャルル6世王女 マリー・ド・フランス

1393〜1438

シャルル6世の四女マリーは1393年生まれで、父王発狂後に誕生しています。
ちょいと誰の子か怪しい感じですが…

母のイザボー・ド・バヴィエールは、シャルル6世の狂気は神の罰だと考えて
マリーを神に捧げることにします。

マリーは4歳になるとすぐにポワシーの修道院に送られまして修道女になりました。
ポワシーの修道女長は父方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボンの妹マリーでした。
親戚がいると心強いですね。
              
修道院にはクリスティーヌ・ド・ピザンの娘マリーが一緒に入りました。
クリスティーヌ・ド・ピザンという人は良く知らないんだけど
宮廷詩人で、フランス初の女流作家とも言われてるらしいです。
王妃の気まぐれで娘を修道院に入れられちまって… 宮仕えもつらいものね。

やはり、というか、マリーはその後修道院長になったわけですけども
一生をその修道院で過ごし45歳で亡くなりました。

可哀想ね… と思いきや、イングランドのエドワード1世王女メアリーみたいな
生活を送ってたりしてね…詳細はわかりません。

いったいイザボー・ド・ヴァビエールの罪の意識って、何に対してでしょうね?
浮気? 浪費? わがまま?
マリーが修道院に入った後も、なにひとつ改まったようには見えないんですけどねぇ…

娘を僧職に就かせればすむって話しじゃないんじゃない? って思うわ

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王シャルル6世王女 ミシェル

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謎の死を迎えた人気者
シャルル6世王女 ミシェル・ド・フランス
ブルーゴーニュ公フィリプ3世妃

1395〜1422

シャルル6世(かどうかはかなり怪しいけど…)とイザボー・ド・バヴィエール
五女ミシェルの名は、シャルル6世が参拝したモン=サン=ミシェルに感銘を受けて
名付けられました。
そういえばこれまでミシェルという名の王女はいなかった気がしますね。
            
イザボー・ド・バヴィエールといえば浮気と浪費と放蕩で有名ですね。
子供たちは放ったらかしにされ、食べ物にも困って修道院に逃げ込んだ、とまで
言われていますが、時には母親らしい顔も見せていたようです。
手紙は頻繁に送りましたし、ペストが流行れば田舎に避難させたり…とかね。
愛溢れる…という感じではありませんけど。

ブルゴーニュ公ジャン1世が、1407年にイザボーの愛人オルレアン公ルイを暗殺しました。

その2年後に、14歳のミシェルがジャン1世の公子フィリプと結婚しました。
ジャン1世は、母イザボーと関係を持っていました。

時は百年戦争まっただ中です。
修道院で教育されていた幼いミシェルは、ものすごく重要な政略結婚に
駆り出されてしまったわけですね。

結婚から10年後、義父ジャン1世が暗殺されました。
この暗殺に兄シャルル(7世)が関わっていたことで、ミシェルは鬱状態になり
その後しばらくして亡くなりました。

ミシェルの死は、親しかったドイツ人の女官ヴィエスヴィルによる毒殺と噂されました。
彼女はミシェルの死の直前に宮廷を退去させられてた、ってことなんですけどね…
直前というのが逆に怪しくないですか?

ミシェルはブルゴーニュ公領でとても人気があったそうで
人々は早すぎる死を嘆いたそうです。
自分の領主様の暗殺に関係した人の妹なのにね。
どうして愛されていたのか、その理由が知りたいものです。

シャルル6世の六女カトリーヌは、イングランド王ヘンリー5世妃になり
後にチューダー王家が生まれるきっかけとなる再婚をいたしました。



              
家系図は併用で・・・
シャルル7世王女 カトリーヌ・ド・フランス
ブルゴーニュ公シャルル1世妃

1428〜1446

イザボー・ド・バヴィエールが、シャルル6世の子じゃないと暗に臭わせたため
王になるのに大変苦労したシャルル7世とマリー・ダンジューには
14人のお子様がおりまして、王女は9人です。

長女ラデゴンド(?)はオーストリア大公ジグムントと婚約していましたが
16歳で亡くなりました。

次女カトリーヌは12歳でブルゴーニュ公子シャルルと結婚しました。

シャルルはカトリーヌが18歳で亡くなるまでブルゴーニュ公にはならなかったので
カトリーヌはブルゴーニュ公妃ではなくシャロレー伯妃です。

この時期は百年戦争中で、女性といえばジャンヌ・ダルク!なものですから
結婚で重要な役割を果たしたであろう王女たちのエピソードが少ないですね。
きっと大変な人生だったと思うんだけど…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

フランス王シャルル7世王女 ヨランダ

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兄弟喧嘩も大がかり
シャルル7世王女 ヨランダ・ド・フランス
サヴォイア公アメデーオ9世妃

1434〜1478

シャルル7世とマリー・ダンジューの三女ヨランダは
18歳の時にサヴォイ公子アメデーオと結婚しました。

兄のルイ11世がアメデーオの妹シャルロットと再婚していました。
         
結婚から13年目に夫のアメデーオがサヴォイ公になりますが
内気な性格と癲癇で、その座を投げ出しヨランダに丸投げしてしまいました。
アメデーオが亡くなった後も、息子フィリベルト1世の摂政を務め
死ぬまで領地を治めました。

ヨランダは末弟のベリー公シャルルとともにブルゴーニュ公シャルルと同盟を組み
兄のルイ11世に敵対していました。
けれどもブルゴーニュ公は1476年にグランソンで敗れると
ルイ11世と結託したに違いない! とヨランダを投獄してしまいました。
すぐに釈放されたみたいですけどね。

その後はルイ11世と仲直りをしたようですが2年後に亡くなりました。

お子様は10人おります。
三男フィリベルト1世は若くして亡くなったのですが、その妃だったのが
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃になるビアンカ・マリア・スフォルツァです。



              
家系図作ったのでね・・・
シャルル7世王女 ジャンヌ・ド・フランス
ブルボン公ジャン2世妃

1435〜1482

四女です。
17歳で結婚した以外に、特にエピソードは無いんですよね…
9人の王女たちの中では比較的長生きした方だったのですがね。
           
とりあえず家系図は面白いので載せてみた…

そろそろガツンとくるエピソードをお持ちの王女に登場してほしいものです。

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王シャルル7世王女 マドレーヌ

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政治と争いに明け暮れた一生
シャルル7世王女 マドレーヌ・ド・フランス
ガストン・ド・フォア夫人

1443〜1495

シャルル7世とマリー・ダンジューには9人の王女がいましたが
五女マルグリートは1歳で、双子のマリーとジョアンヌはそれぞれ8歳と1歳、
八女マリーは生まれてすぐ亡くなりました。
マドレーヌは末娘です。
      
幼い頃にラースローと婚約しましたが、結婚前にラースローが亡くなりました。
毒殺だと言われていましたが、20世紀になってから白血病だったということがわかりました。

そんなわけで18歳の時にフォワ伯ガストン4世の息子ガストンと結婚しました。
しかし夫ガストンは結婚から9年後に26歳という若さで亡くなってしまいました。

その2年後にはお義父さまのガストン4世も亡くなり息子のフランソワが継承しました。

さらにその7年後にはガストンの母方の祖父ナヴァラ王ファン2世と
母レオノールが相次いで亡くなったため、フランソワは13歳で
ナヴァラ王フランシスコとして即位しました。

フランシスコが亡くなると娘のカトリーヌ(カタリナ)が女王になります。

この間マドレーヌはず〜っと摂政を務めました。

しかし少女の君主に若い母親摂政というセットは政敵に狙われやすいもの…
ガストンの弟ジャンが自分の王位を主張して戦いを挑んできました。
この争いはおさまったものの、ジャンの娘ヘルマナと再婚したアラゴンのフェルナンド2世が
ナヴァラ王位を主張してきて争いが勃発しました。

マドレーヌは1494年にフェルナンド2世に人質として捕らえられ翌年亡くなりました。
フェルナンド2世ってイサベル1世とペアで賢王&賢女王カップルという印象ですけど
賢王ということは非情な部分もおおいにあるということなのかしらね?
領土拡大のためならなんでもするぜ!!って感じでしょうか?

確かに争いがおきやすい家系図ですよね…なんとなく

それにしてもシャルル7世の場合、王妃や王女たちより
愛妾のアニェス・ソレルが断然有名ってどうよ?

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ11世王女 アンヌ

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えーっとね… たぶんお局体質じゃないかと…
シャルル11世王女 アンヌ・ド・フランス
ブルボン公ピエール2世妃

1461〜1522

みなさんお待ちかねのアンヌは、ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの次女です。
長女ルイーズは生まれてすぐ亡くなりました。
三女ジャンヌはルイ12世妃になりました。
           
幼い頃にロレーヌ公ニコラと婚約しましたがこれを破棄して
12歳の時にブルボン公ピエール2世と結婚しました。

ピエールは実はオルレアン公女マリーと婚約していたのですけれど
これをルイ11世が阻止しています。
ちなみにマリーの弟が後のルイ12世でございます。

ちなみにちなみに、ピエールの姉マルグリートの息子がフランソワ1世です。
皆が王位を狙える位置にいるだけに… 結婚も一大事ですわね。
       
アンヌは肖像画から見て取れるように知的、かつエネルギッシュで
とても手強い女性だったということです。

弟シャルル8世が未成年の間は夫とともに摂政を務めましたが
職を辞した後も王様ばりの力を持っていたようです。

やり手さんだったアンヌには政治的な功績も多々あって… たとえば
ルイ11世時代の圧政を正したりとか、イングランドのチューダー家を援護したりとか
百年戦争終結を計ったりとか…

しかしそれはおいといて、私がとても気になったのは
数々の娘さんたちを監督・教育したことでしょうか。
ディアーヌ・ド・ポワティエ、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世皇女マルグリートなども
含まれております。

また娘のシュザンヌに宛てて『娘の練習帳(直訳)』という本を書き与え
庶民の暮らしや貴族としてのこころがけを説いたそうです。
どうやらハンカチを日常的に使うことを広めたのもアンヌらしい。

夫のピエール2世が1503年に亡くなって娘のシュザンヌがブルボン公領を継いだわけですが
アンヌは王家の干渉を防ぐため支配の手を緩めませんでした。

とっても頼りにはなりそうだが隅々まで口うるさそうでもありますね。
アンヌには一人娘のシュザンヌしかいなかったのですが
息子がいたとしたら嫁は大変だったかも…

(参考文献 Wikipedia英語版)

マカロン ちくちく・・・

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うちの旦那さんは、仕事がらバレンタインに
いくつか義理チョコをいただきます。

去年まではお返しにアクリルたわしをお渡ししていたのですが
今年はハマっているマカロンポーチにいたしました。

写真だと大きさがわかりずらいですね…
500円玉が2〜3枚入ります。
緊急時に便利です。
小ちゃなアクセサリーの保管にもおすすめです。

使うのは10cmのファスナーとPEボタンというくるみボタンの一種、
そしてハギレを少々…これをひたすらチクチク縫いました。
旦那さんが寝静まってからも韓流ドラマを見ながらチクチク縫いました。
1ヶ月かけて20個ぐらい作りました。

パッチワークをやってましたのでね…ハギレはものすごく持ってます。
だけどしばらく作りたくないかも…

『花・死人に口なし』愛が極まると・・・

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BLUMEN / DIE TOTEN SCHWEIGEN 
アナトール・シュニッツラー

聞いたことない作家でしたが、というかオーストリアの作家の小説を
読んだことが無い気がするので手に取ってみました。

読みつけていないせいか、好きなタイプなんだか嫌いなタイプなんだか
決めかねている一冊です。

9篇収められていますが、悲しい愛の結末を迎える話が多かったですかね。
いくつかロマンスとファンタジーを併せ持つ物語がありました。
それが見事に融合しているかどうかは、はっきり言ってわからない…

好きだった話は、ちょっと皮肉っぽい愛の終わりを書いた
『わかれ』『死人に口なし』『情婦殺し』あたりなんですが
今回はロマンス&ファンタジー色が強い(と思う)3篇をご紹介します。

『花(Blimen)/1894年』
裏切っておきながら毎月花を送ってきていた女性が亡くなったと
女性の伯父から聞かされました。
しかし、花が届けられる日がやってくると、何ごともなかったように花が届きました。
日々が過ぎ、花は枯れ始めましたが、捨てることができずにいます。

男性は枯れていく花に裏切った女性を投影させていたんでしょうかね?
この男性には新しい恋人がいまして、その女性も何かを感じ始めるんです。
そして男性の心を取り戻すために(だと思うんですけど)思い切った行動に出ます。
上手くいくと良いですね。

『アンドレーアス・タマイアーの最後の手紙
     (Andreas Thameyers Letzter Brief)/1900年』
アンドレーアス・タマイアーは死に臨む前に妻の不実の疑いを晴らす手紙を書きます。
彼の妻は肌の色が違う子供を生みました。
しかし彼は誓って妻が浮気をしたのではないと釈明します。

妻を思う夫の愛の深さが涙を誘うお話しですが、その釈明のしかたがね、
文献から、一見科学的に思えるけど非現実的な検証を引用したもので興醒め…
やけに反論するとよけい詮索されるような気がするんですけどね。
往々にして疑われた時には反論しても誰も耳を貸してくれないものなのよね。

『レデゴンダの日記(Das Tagebuch der Redegond)/1909年』
公園のベンチで話しかけてきた紳士が語った不思議な話です。
彼は小さな町で駐屯中に大尉の妻レデゴンダをひと目見て恋に落ちました。
彼の愛は空想の中で膨らむだけで、実際は何ごともありませんでした。
しかし、レデゴンダが亡くなった後、彼は大尉から猛烈に責められます。

妄想を日記に書き付ける…というのはありがちなことですよね?
誰かに見られたらものすごく恥ずかしいと思うので、厳重に管理しなきゃいかんけど…
妄想があまりにもリアルだったりすると痛い目に遭う人もいるので気をつけましょう。
物語の男性は、違った意味でその日記の内容に驚愕するんですけどね… 不思議ですよ。

けっこう屈折した愛情をを抱えているような主人公だらけの一冊でちょいと疲れました。
訳者のせいかどうなのか… なんか固いんですよね。
見方によってはとてもロマンチックな話しだと思うのですけど。

愛が深いばかりに有りもしない幻想を見てしまうとか
愛の力であり得ないことがおこるとか、そんな風にも見てとれます。

同じ話しをタルンタルンの甘いラブロマンスに展開させてみるのも面白いかもしれません。

『少年少女』ただただ微笑ましい

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NOS ENFANTS 
1886年 アナトール・フランス

お子供たちのことを書いた小説は大きく二分されると思います。

ひとつは子供の目から見た素朴で純粋な微笑ましいお話し、
もうひとつは子供の中に潜む「まさか」な悪意を書いた肌寒いお話し。
ふたつがブレンドされていることもありますが
大まかにいうとそんなテーマが多いんじゃないかしら?

この『少年少女』は徹頭徹尾 “ 愛くるしい ” 子供たちのお話しでした。
裕福な家の坊ちゃまやお嬢ちゃま、豊かな自然に囲まれた農家の兄弟姉妹、
厳しい環境の中で育つ海の子、などなど、様々な子供たちが登場しますが
皆可愛らしくて抱きしめたくなるような姿が垣間見えるお話しでした。

特に好きだったお話しをいくつかご紹介します。

『カトリーヌのお客日』
5時になったのでカトリーヌはお人形を集めました。
カトリーヌは綺麗なお人形ばかりに話しかけます。
おやおや、お客様をもてなす女主人として、それではいけませんね。

教訓的なお話しが無い中では唯一お嬢様教育的な一文がありましたが
「これこれ」と優しくお爺さまが諭すような感じでした。
この本を読んで自然にマナーを身につけて欲しいという心遣いでしょうか?

『回復期』
病気にかかって寝込んでいたジェルメーヌの側には一緒に病気になったお人形がいて
アルフレッドがお医者様よろしく脈をとってくれます。
病気の間、リュシィはずっとジェルメーヌの部屋で勉強や縫い物をしてくれました。

心細い病の最中は、人々の優しさが身にしみますよね。
普段は喧嘩ばかりの兄弟姉妹の温かさにホロリときます。

『落ち葉』
秋になりました。
ピエールとバベとじゃのは山羊や牛のために落ち葉を拾いに行きます。
大人たちに混じって、幼い子供たちも真面目に働きます。
誰一人口をきく者はいません。

子供たちが大人と同じように働くことに誇らしさを感じている様子が
ありありと浮かびます。
親の仕事にプライドを持ち、成長して、逞しく継いでいくのでしょうね。

『シュザンヌ』
シュザンヌは父に連れられてルーブルを訪れました。
古代の彫刻を前にしたシュザンヌは「大人たちも人形を壊すのね」と思います。

子供にこんなもの見せてもさぁ…なんて思うことがありますが、いかんいかん…
作品の意味はわからなくても感じさせることを大切にしなさい、という教訓か?

私が2〜3行でさらっと書くと、なんてことないすっとこどっこいな内容になっちゃいますが
さすがのアナトール・フランスが書くと濃密な可愛さ溢れる物語になってますのでね…
安心して読んでほしい…

全ての子供たちに頬ずりしたくなりますよ。

フランス王ルイ12世王女 レネー

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義理の母がチョー有名!
ルイ12世王女 レネー・ド・フランス
フェラーラ公エルコレ2世妃

1510〜1574

イタリア支配を夢見ていたシャルル8世は若くして亡くなりました。
王妃アンヌ・ド・ブルターニュは7回妊娠しましたが、皆死産や流産
あるいは幼くして亡くなりました。
王女は3人ですが、お名前がついたのは末子のアンヌだけです。

アンヌ・ド・ブルターニュが再婚したのがルイ12世です。

ルイ12世は、ルイ11世王女ジャンヌと結婚していましたが、無理くり離婚して再婚しました。
ジャンヌとの間にお子様はいません。

アンヌ・ド・ブルターニュはまたまた9回妊娠しましたが、成長したのは王女二人でした。
長女クロードはフランソワ1世妃になります。

アンヌ・ド・ブルターニュは自分の領地であるブルターニュの自治を守るため
日々戦っていまして、ブルターニュをレネーに譲ろうと考えていましたが
ルイ12世が承諾しませんでした。
結局ブルターニュはクロードに譲られ、その後フランス王家に持ってかれます。
       
当時フランス宮廷の侍女の中にはアン・ブリーンがいまして
レネーは彼女がお気に入りだったようです。

18歳の時エステ家のフェラーラ公エルコレ2世と結婚しました。
エルコレ2世の母は “ あの ” ルクレツィア・ボルジアでございます。
レネーが嫁いだ時には既に亡くなってますので直接は会ってませんけど。

フェラーラの宮殿はルクレツィアによって芸術が盛んになたていました。
レネーはさらに芸術を奨励し、科学に力を注いだりしました。
最初はそんな宮廷生活を楽しみ、5人のお子様に恵まれたりと幸せだったみたいですが
後年はそんなにハッピーではなかった様子…

なぜかっていうと…
ルクレツィア・ボルジアの父はローマ教皇アレクサンデル6世で
いわばエルコレ2世はカトリックの長の孫にあたるわけなんですが
レネーは後にカルヴァン派(プロテスタント)の支持者になって後押ししたからです。

ローマ教皇庁が新教の貴族たちをフランスから追い出しにかかった時に
ジャン・カルヴァンがレネーの宮廷を訪れて数週間過ごしました。

レネーは多数のプロテスタント信者たちと連絡を取り合ったり
プロテスタントの正餐を受けたりとプロテスタントに傾倒していきました。

しかしローマでは反宗教改革が始まり、フェラーラで審問が始まりました。
エルコレ2世はレネーの甥アンリ2世に告訴し、レネーの財産を全て剥奪して捕らえました。
レネーはこの仕打ちに屈し、懺悔を行ってカトリックの聖体拝領を受けました。
しかし今までのように好き勝手なことは当然できませんね。

息子たち、特に末子で司教のルイージとは当然意見が合いません。
レネーはフランスに帰ることを熱望しましたが実現せず
1559年にエルコレ2世が亡くなってからやっと帰ることができました。

フランスでは長女のギーズ公妃アンヌのもとに身を寄せましたが
ギーズ公はカトリック派の筆頭貴族です。
ここでも小さくなっていなければね…

ギーズ公の甥にあたるフランソワ2世が亡くなってギーズ公のパワーが少し衰えると
やっと領地の中でプロテスタントの礼拝を受けることができるようになりました。
良かったね
そればかりかカルヴァン派の牧師まで呼ぶことができるようになり
レネーの城はプロテスタント貴族の避難所みたいになっていきました。

けれども安泰な時期は10年ほどでした。
1572年、サン・バルテルミーの虐殺がおこります。
レネーはかろうじて何人かのプロテスタント信者を救うことができましたが
大多数の信者を守れませんでした。

さすがにカトリーヌ・ド・メディシスも王女であるレネーには手を出さなかったようですが
その後もカトリックへの改宗をしつこく迫りました。
レネーは無視してたみたいですけどね。

サン・バルテルミから2年後、娘アンヌの領地モンタルジで亡くなりました。

エルコレ2世は教皇パウルス3世に忠誠を宣誓しています。
パウルス3世はカトリックとプロテスタントの対話を計った教皇だったようです。
そんな人に忠誠を誓った人がなぜ自分の妻にそんなことを?
ちなみにパウルス3世の後任ユリウス3世もプロテスタント理解者だったらしい…

二つの宗教(派?)のどちらかが主張を和らげていたら
たくさんの人の人生が変わっていた時代のような気がしますよ。

世界の転機みたいな方面から見ればレネーはもっと知られていても良い気がするが
“ 女の歴史 ” の中では、美貌の持ち主でスキャンダルいっぱいのルクレツィアの方が
どうしても目立っちゃいますよね。

(参考文献 澁澤龍彦氏『世界悪女物語』 Wikipedia英語版)

フランス王フランソワ1世王女 マルグリート

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瀕死の父の指示で挙式
フランソワ1世王女 マルグリート・ド・フランス
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト妃

1523〜1574

フランソワ1世はルイ12世の王女クロードと結婚し
アンリ2世を含む7人のお子様を授かりました。
王女は4人ですが、長女ルイーズは2歳で、次女シャルロットは7歳で亡くなりました。

三女マドレーヌはスコットランド王ジェイムズ5世の妃になります。

      

義理の姉にあたるカトリーヌ・ド・メディシスとはとても仲が良かったそうです。
カトリーヌも中傷や夫とディアーヌ・ド・ポワティエの問題でつらい結婚生活が続く中
宮廷内にお友達ができてとても心強いことだったでしょうね。

15歳の時、フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の間で
マルグリートとカール5世皇子フィリップ(後のスペイン王フェリペ2世)の
結婚が決められましたが、すぐに破談になりました。

実はフランソワ1世は、カール5世に神聖ローマ皇帝の座をもってかれた経験があります。
フランスと神聖ローマ帝国はイタリアの覇権も争っている最中でした。
スペインの王座奪い合いもこれから激しくなっていくし…
まったく、他所の国で何やってんでしょうね?

ちなみに、フランソワ1世は王妃クロードを亡くしてから6年後
カール5世の姉アリエノールと再婚しました。

その後マルグリートに相応しいランクの相手を探すために時間が費やされ
結婚が決まったのは36歳の時… 費やしすぎではないのか?
相手は5歳年下のサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトでした。

この結婚の祝賀式典の一環で行われた騎馬試合で兄アンリ2世は傷を負い
瀕死の状態に陥ります。
けれども一瞬意識を取り戻すと、マルグリートの結婚式を直ちに執り行うよう指示しました。
これはサヴォイア公側がアンリ2世の死で同盟を拒むのを恐れたためです。

宿敵カール5世の息子フェリペ2世にミラノとナポリを奪われた以上
少しでもイタリアにリンクしておかねば!! というガッツが感じられますね。

アンリ2世はマルグリートの結婚式の最中に亡くなりました。

マルグリートとエマヌエーレ・フィリベルトのお子様で成長したのは
カルロ・エマヌエーレ(1世)だけでした。
後にフェリペ2世の王女カタリーナ・ミカエラと結婚します。

父親と破談になった姑がいる家なんて… 嫁いだらいじめられそうで怖いですね
でもマルグリートは亡くなってたらしい。
ま、当時はそんな個人的な感情なんて関係なかったんでしょうけど…

フランス王家とハプスブルク家の覇権争いが激化しているのはうっすらわかるが
マルグリートのパーソナリティについてはまったくわかりませんでした。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

フランス王アンリ2世王女 クロード

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母は… でました! カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世王女 クロード・ド・フランス
ロレーヌ公シャルル3世妃

1547〜1575

アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの間には愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ
どっしり居座っていたとはいえ、お子様は10人が生まれています。
王子は5人で、3人が王に即位しましたが皆カトリーヌに操られていたような感じですね?

長女エリザベートはスペイン王フェリペ2世妃になりました。

次女クロードは姉のエリザベートと
兄フランソワ(2世)の婚約者スコットランド女王メアリーと一緒に育てられました。

エリザベートはメアリーに従順で大人しい性格に育ったということでしたが
クロードは輪をかけて内気で控えめな性格だったようです。
恐るべし、メアリー・ステュワート…

         

クロードは病弱で、カトリーヌの猫背と内反足を受け継いでいました。
ちなみにこの特徴は、三女のマルグリート以外の兄弟姉妹が皆受け継いでいたらしいです。

クロードは11歳の時に4歳年上のロレーヌ公シャルル3世と結婚しました。
カトリーヌの大のお気に入りだったクロードは結婚後も頻繁に里帰りしましたし
逆にカトリーヌもしばしばロレーヌを訪ねていました。

しかしそんなお気に入りの娘もたまには母親に反抗…
クロードはカトリーヌに黙って妹マルグリートに
サン・バルテルミーの虐殺のことを教えてあげようとしたとか…
三女マルグリート、通称マルゴはブルボン家のアンリ(4世)と結婚したばかりでした。
ちなみにアンリはプロテスタントでございます。

 ひとくち情報
“ サン・バルテルミーの虐殺 ” とは、ザックリいうと
1572年8月24日に、アンリ(4世)とマルゴの結婚式のために集まったプロテスタント貴族たちが
カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公アンリの指示で多数殺害された事件です
殺害は貴族だけにとどまらず、街中でプロテスタントの市民が殺されました ひとくち情報おわり

大人しかっただけにあんまりエピソードがないですね。
9人のお子様がいまして、28歳の時に末娘クロードの出産で亡くなりました。

長女のクリスティーヌがトスカーナ大公フェルディナンド1世妃になりました。

なにせ、カトリーヌ・ド・メディシス、マルゴ、メアリー・ステュワートと
大物が目白押しのフランス宮廷ですのでね…
他の淑女たちは霞んじゃいますよね

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

『1984年』正解は見えない・・・

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NINETEEN EIGHTY-FOUR 
1949年 ジョージ・オーウェル

恐ろしい小説ですが、ただの独裁国家批判小説とは思えない… というか
批判してるんですかね?
最初に言っとくとハッピーエンドではありません。

舞台はオセアニア国の首都ロンドン。
主人公ウィンストン・スミスが暮らしているのが勝利マンションズで勤務先は真理省。
話す言葉は “ 新語法 (ニュースピーク)” 、一息つきたくなったら “ 勝利ジン ”
国では “ 憎悪週間 ” を迎えようとしていました。

オセアニア国は常にいずれかの隣国と戦争中で国威発揚が叫ばれています。
党の最高指導者B.Bのポスターとスローガンが至る所に貼られています。

ウィンストンたちの暮らしは屋内に取り付けられたテレスクリーンで完全に監視され
朝の体操から煙草の銘柄、出かける場所などありとあらゆる面で管理されています。

なんていうか… 「こうすれば独裁体制は安泰!!」っていう教科書みたいよ。

ウィンストンは39歳の男性で、記録局というところで働いています。
政府の刊行物を政府に都合良く修正(改ざん)するのが仕事です。
両親と妹は第一次大粛正の時に姿を消したようですがはっきり覚えていません。

物語はウィンストンが決死の覚悟で日記を書くところから始まります。
これはものすごく危険なことで “ 思想警察 ” に知られたら大変なことになります。
同僚も友人もいつ密告者に変わるかわからず、誰も信用できません。

ウィンストンは地下組織として国家転覆を図る “ 兄弟同盟 ” に入ろうとします。
兄弟同盟に実態はありませんが、噂は広くはびこり公然の敵とされています。

けれども信じた相手が悪かった…
ウィンストンは逮捕され、洗脳され、釈放されて… 過去の政治犯と同じ末路をたどります。

主な登場人物を書きますね。
誰がウィンストンを陥れたのでしょうか?

魅力的な女性でありながら “ 青年反セックス連名 ” の活動をしているジューリア。
けれども彼女はいきなりウィンストンに愛を告白します。
ジューリアは国の体制になんら疑問はないようですが、実は快楽が好きな女性でした。

“ 党内局 ” で重要なポストを占めているオブライエンは、どこかユーモラスで魅力的です。
ウィンストンはオブライエンが自分と同じような考えを持っているのでは…と
思うことがあります。

仕事熱心な同僚のチロットソンは口をきいたこともありませんが
彼はウィンストンに敵意のある視線を送ります。

夢見がちで頼りない同僚アンプルフォースは詩の改ざん版を制作しています。
彼は過去のイギリスの詩について語る時幸せな表情を見せます。

サイムはウィンストンの友人で調査局に勤めています。
政府には忠実で新語法にのめりこんでいます。
しかし、ウィンストンはサイムがすぐに密告者に変わるタイプだと気づいています。

マンションの隣人パーソンズは政府のために骨身を惜しまず活動しています。
気の弱そうな妻と、政府のプロパガンダを完全に信じている子供たちがいます。

ウィンストンとジューリアが人目を忍んで会うために借りた部屋がある
“ プロレ街 ” の古道具屋の主人チャリントンは過去の遺物のような人です。
粛正以前のことを覚えていて、懐かしそうに話します。

以上、主だったところを書いてみましたが、この中の何人かはまさに思想警察の中枢で
ウィンストンのような政治犯に容赦はしません。
手順に従って徹底的に潰します。

逆に何人かはウィンストンが収容所で会うことになります。
皆不安げで、“ 101号室行き ” を心底恐れています。
ウィンストンも最後には101号室に行かされるんですけどね…

でもそれが終わりじゃないの… 怖いわぁ。
『メトロポリス』的なラストを予想していましたが、全く違ったですよ。
確かに『メトロポリス』は政治というより経済格差が焦点だったけど…

しかし… 私は最初にハッピーエンドじゃないと書きましたが、もしかして…
こういう社会を当然視していて、謳歌していて、何も不自由を感じていない人には
反逆者が哀れな末路をたどって社会秩序が保たれるって、良いことかもね?

民主主義が正解で、共産主義・独裁が誤り、というのはこっちサイドの見方であって
国家にとって何が良いのかは、学者さんによって見解が異なるんでしょうね?

私はやっぱり、自由にものが言える世の中が好きですね。 好きですが…
こうもトップが入れ替わり、どいつもこいつも長続きしない(させない)政府を見てると
「もう! 独裁者でもいいから長続きする指導者が欲しいよ!」なんて思っちゃうけど
国民が自由な独裁体制ってあるんだろうか?

『地図にない町』SFって幅広いのね

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THE COMMUTER AND OTHER STORIES 
1953 フィリップ・K・ディック

SFをあまり読まない私なんですが、P・K・ディックは何冊か持ってます。
しかし完全に内容を覚えていないのだが…
村上春樹さんに凝った時に「読んでる」って書いてあったからだと思うのね…

P・K・ディックは宇宙でドンパチ…という印象が強いんですが
この一冊からはもう少し親しみ易さを感じました。
内容はともかく、とりあえず地球が舞台の話が多かったのでね…

好きだったお話しをご紹介します。

『おもちゃの戦争(The Little Movement)』
ボビィ少年は町でおもちゃの兵隊をひとつ買ってもらいました。
しかし、家に持ち帰ると兵隊は豹変し、ボビィ少年に命令するようになります。
兵隊は仲間の兵隊たちと人間社会を乗っ取る気です。

ASIMOとかムラタセイサクくんがある今、「ありえない」 とは言えないですよね!
明晰な頭脳を持つ小さな兵隊に攻められるって、怖いような可愛いような…
兵隊をやっつける正義の味方もかなり可愛いです。

『名曲永久保存法(The Preserving Machine)』
ラビリンス博士は名曲を後世まで遺したいと思い名曲保存器を製造します。
モーツァルト、ベートーベン、バッハなどの楽譜を奇妙な生物に変えて森に放ったところ
生物たちは野生化して、森はとんでもないことになります。

ものすごい良音で場所もとらずに音楽が保存できる今、そんな回りくどいこと…と
思いがちですが、昔の人々にとっては夢みたいなことだったんでしょうね?
でも1950年代って蓄音機は無かったのかしら?
現代には100年前の人から見れば魔法みたいな商品が山のようにありそうですね。

『ありえざる星(The Impossible Planet)』
アンドリュウ船長の船に350歳になるゴードン夫人がやってきて
死ぬ前に伝説の星、地球へ行きたいと言います。
大金に目が眩んだ船長は、地球によく似ているエムファー3星を選び向かいました。
しかしその星の没落ぶりにゴードン夫人は…

地球の寿命ってあと何年でしたっけ? その後にはこんなことがおこるのかしら?
星の最後は粉々に砕け宇宙に飛び散るんだと思っていましたが
廃墟になったうら寂しい星のたたずまいを想像すると
一種のロマンを感じないでもないですね。

未来の戦争や宇宙の駐屯地をテーマにした話もあれば、不思議な機械の話あり
ギリシャ神話をモチーフにしたもの、怪奇小説のような話、超能力など
一般人が不思議に感じるものを幅広く描いております。

本当にあったら東スポが黙っていなそうな内容が盛りだくさん!!で
面白かったですよ。
あと2冊短篇集があるのでいつか読んでみます。

フランス王アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー

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父王の(浮気な)血をひく王女
アンリ4世王女 クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃

1606〜1663

子供の影で王権を行使していたと言われるカトリーヌ・ド・メディシスですが
16歳で亡くなったフランソワ3世とメアリー・スチュアートにはお子様がいませんでした。
シャルル9世とエリザベート・ドートリッシュには
マリー・エリザベートという王女が生まれましたファが6歳で亡くなりました。
アンリ3世とルイーズ・ド・ロレーヌにもお子様がいませんでした。

結局王座は王女マルゴの婿アンリ4世の手に渡ります。

アンリ4世はガブリエル・デストレを筆頭に、たくさんの愛妾を持っていたことで有名ですが
行動力・人柄に優れ思慮深い人で、人気が高い王様でした。
一人目の妃マルゴとの間にはお子様ができませんで
二人目の妃マリー・ド・メディシスとの間に三男三女を授かりました。

長男は後のルイ13世です。
長女エリザベートはスペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリーはイングランド王チャールズ1世に嫁ぎました。

       
次女クリスティーヌは13歳でサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオに嫁ぎました。
しかし彼女はこの結婚に満足できなかったようですね。
姉のエリザベートばかりか妹のアンリエッタまで王妃になるなんて!

クリスティーヌは妹に負けるもんか!とサヴォイア宮廷にフランス式を持ち込み
イングランド宮廷と張り合いました。
そのためには宮殿だって建て直すぜ!

しかし王妃ではなく、公国の妃という現実はどうにもなりませんね…
そこで夫にキプロスとイェルサレムの王様になってちょうだいよ! と
うるさくけしかけておりました。
男性の皆様、「課長になってよ! 次は部長になってよ!その次は専務になってよ!!」なんて
口うるさく言われるのはつらいですよね。

結局ヴィットーリオ・アメデーオ1世は王になることなく1637年に亡くなりまして
クリスティーヌは5歳の息子フランチェスコの摂政になりました。
翌年フランチェスコが亡くなり、続いて4歳のカルロ・エマヌエーレ2世の摂政になります。

クリスティーヌは移り気で軽薄な女性と言われています。
その上浮気性で多数の愛人を持っておりました。
摂政とは名ばかりで政治はそっちのけ… 評判は芳しくなかったようです。

そんな母親が幼王の摂政に就いた国… もちろんもめ事がおこりますってば。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟マウリッツォとトンマーゾはスペインの力を借りて、
クリスティーヌはフランスの力を借りて、継承戦争が4年ほど続きました。

この戦いはクリスティーヌの勝利に終わりました。
なんだかんだあっても息子のために領土を守り抜いたことは賞讃に値しますね。
しかもフランス王家の力が領土内で強まることも防いでいました。
やればできる子だったのですね… と思いたいが一方では…

カルロ・エマヌエーレ2世が成人に達するとクリスティーヌは摂政の座を退きましたが
実際は権力を手放しませんでした。
私生活はやりたい放題で、愛人たちが侍っておりました。
その中には継承戦争で敵だった義弟マウリッツォも含まれていた模様…
とにかくハンサムで逞しい男性がお好きだったようです。

息子カルロ・エマヌエーレ2世がクリスティーヌの弟オルレアン公ガストンの
公女フランソワーズと結婚した年に亡くなりました。
生きていたら嫁姑問題が起きかねなかったですよね?
ある意味潔い逝き方と言えましょう。
          
その後はフランス王家とこんな感じで繋がってまいります。
手を抜いてすみません… 見てもらった方が解り易いと思いまして…
         
美男子を侍らせてるあたりエカチェリーナ2世と同じなんですけどね。
エリザベス1世も何人か恋人がいましたよね。
政治をきっちりやるか、絶対的な権力を持って反対勢力を押さえ込んでいたら
悪評ばかりがたつこともなかったでしょうに… きっといいところもあったと思うよ。

いよいよブルボン家末期にさしかかってまいります。
長〜い時間かかっていたフランス王女編も終わりが見えてきましたね! ふ〜う

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート

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義母と離れてからは幸せだったような気がする・・・
ルイ15世王女 ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
パルマ公フィリッポ妃

1727〜1759

アンリ4世とルイ14世という艶話の多い王様に挟まれたルイ13世は浮いた噂も無く
地味な印象ではありますが、絶対王政の礎を築いた忘れてはならない君主です。
王妃アンヌ・ドートリッシュは何回かの流産の後
結婚後23年目に驚きの妊娠をしてルイ14世を含む王子が二人生まれましたが王女はいません。

ルイ14世と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュには3人の王女が生まれましたが
長女アンヌ・エリザベートと次女マリー・アンヌは1歳で亡くなり
熱愛していた三女マリー・テレーズも5歳で亡くなりました。

多産な家柄が買われてルイ15世の妃に選ばれたマリー・レクザンスカ
評判どおりお子様をた〜くさん生みましたが、なにせ二男八女と王女ばっかりで
ルイ15世はたいそうご立腹
年長の王女たちと年少の王女たちは完全に扱いが違ってます。

長女ルイーズと次女アンリエットは双子です。
この頃はルイ15世はまだ浮気をしていませんでした。
初の子供が生まれたってことで大喜び!の父王は二人を可愛がりました。
    
12歳の時にカトリック強国同士の繋がりを強固なものにするため
スペイン王フェリペ5世王子フィリッポとの婚約が決まりました。
しかしフィリッポは八男で(既に4人の兄は亡くなっていたものの)
王位を継ぐ可能性が低いということでフランス宮廷は少々意気消沈したようです。

なんだかんだでその年のうちに結婚したルイーズでしたが
19歳年上のフィリッポとの結婚はあまり幸せなものではなかったようです。

ルイーズが嫁いだ時、スペイン宮廷ではフェリペ5世の未亡人
イサベル・デ・ファルネシオが権勢をふるっていました。
作法はヴェルサイユより厳格だし、義母は意地悪だし…ってことで
なかなか馴染めなかったようです。

ルイーズは義母を避けて人形で遊ぶようになり
父王ルイ15世には「不幸です」と手紙を送りました。
12歳ですものね… 遊びたい盛りだと思うんですけど
世継ぎが必要な王家の結婚生活はそんなに甘いもんじゃありません。
14歳で長女マリーア・イザベラを生みました。
マリーア・イザベラは後に神聖ローマ皇太子ヨーゼフ(2世)に嫁ぎます。

1745年オーストリア継承戦争の終結でパルマがスペインに引き渡され
3年後フィリッポがパルマ公になりました。
ルイーズはスペイン(=義母)から離れることができました。
ここからけっこう好き勝手に生きるわよ

パルマに向かう途中でルイーズはヴェルサイユに立ち寄り数ヶ月滞在します。
その時ポンパドゥール夫人に会いすっかりファンになってしまいました。
他の姉妹たちは目の敵にしていたんですけどね…

この帰国の時、18歳のルイーズを目にしたヴェルサイユ宮廷の人々は
「なんてチャーミングなんでしょう」と驚きました。
また、洞察力と知性があり、若いのに母性溢れる女性だと言われたそうです。

ばっちりフランス式の作法を仕込んだルイーズはパルマに渡り
夫フィリッポとともに万事フレンチスタイルで過ごしました。

その3年後に双子の妹アンリエットが亡くなったので
ルイーズは再びフランスに帰国します。
本当は2〜3週間の予定だったのですが、実家が楽しかったんですかね?
結局1年近くパルマに戻ろうとしませんでした。

さらに1757年にもフランスに戻り、個人的に連携していた女帝マリア・テレジア
皇子ヨーゼフと娘のマリーア・イザベラの縁談をまとめました。

その後パルマに戻ったのかどうだか定かでないんですけど
1759年にヴェルサイユで天然痘に罹って亡くなっています。
パルマにいたら長生きできたかもしれなかったのにね…

幼い頃に離れたヴェルサイユの楽しく美しい記憶が
彼女を引き止めていたのかもしれませんね。

ルイーズ-エリザベートの次女マリーア・ルイーザ
スペイン王カルロス4世妃です。
娘の不埒な新婚生活を知らずにすんで良かったのかしら?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ15世王女 アンリエット

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初恋はかなわず
ルイ15世王女 アンリエット・ド・フランス

1727〜1752

ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの最初の子供は
双子の王女ルイーズ・エリザベートとアンリエットでした。
       
まだ浮気に走っていなかったルイ15世は、初めての子供ということもあり
二人の王女をものすごく可愛がりました。

姉エリザベートの結婚の時、アンリエットはとても悲しみましたが
ルイ15世も娘が旅立つ直前まで付き添い、別れを惜しんだそうです。

エリザベートがいなくなると、ルイ15世の愛情はアンリエットに向けられました。
なるべくアンリエットと長い時間を過ごせるように秘書に指名して手伝わせたり
外出に誘ったりしました。

アンリエットはからだが弱かったのですが、父王の愛情を失うまいと
体調不良をおしてルイ15世に従いました。
喀血した時にも「お父様には知らせないように」と口止めしたそうです。

アンリエットは十代半ばでルイ・フィリップ・ドルレアンと愛し合うようになります。
二人は結婚を望みましたが、ルイ15世はこれを即却下しました。
オルレアン家の台頭阻止とか貴族のバランス・オブ・パワーとかの
政治的な考えもあったかもしれないけど
一番の理由は、お気に入りの娘を持ってかれるのが嫌だったんじゃないかしら?

ルイ15世は後にオルレアン家の格式やスペイン王家の継承の可能性などから考え直しますが
結局二人が結婚することはありませんでした。

ちなみに…
ルイ・フィリップはブルボン家の支流コンティ家のルイーズ・アンリエットと結婚しました。
もしかしてアンリエットとは宮廷で顔を合わせていたかもしれませんね。
年ごろも同じぐらいなので、一緒に遊んだり勉強した仲かもしれないのに恋敵に?
愛憎渦巻くヴェルサイユ…今度調べてみようっと!

姉のエリザベートとアンリエットは仲良しでしたが、エリザベートが初の里帰りをした時
二人の愛情にひびが入りました。
だってエリザベートが、家族の敵ポンパドゥール夫人を気に入っちゃうんですもの!
兄弟姉妹たちはポンパドゥール夫人のことを “ パパの売春婦 ” よばわりしていました。
それなのに、そんな女に憧れて親友になろうとするなんて〜!!
てなわけで、その後エリザベートとアンリエットは疎遠になってしまいます。

ポンパドゥール夫人に負けまいと無理をしていたアンリエットは
24歳の時に天然痘で亡くなりました(腸チフス説あり)

ルイ15世の悲しみは大変なもので、アンリエットの死後2時間は呆然とし
数週間は愛妾たちにも目を向けないほどのうちひしがれようでした。

ルイ15世といえば次から次へと愛妾をつくっては愛欲に耽り
家族を蔑ろにしていたイメージがありますが、こういうエピソードを知ると
「親としての愛情はあったのね…」と、少しホッとしますね。

けれども、これから生まれてくる王女たちに対するルイ15世の態度は徐々に変化します。

三女ルイーズが生まれた時、ルイ15世は「また女?」とふてくされまして
王子だったら行うはずだった祝典は取り消されてしまいました。
ルイーズにはヴェルサイユ内のチャペルでミサが行われただけです。 ひどいわ
4歳で風邪に罹ったルイーズは、亡くなる前に慌てて洗礼を受けさせられたってことです。

さてさて、四女からはどんなことになっていくのでしょうね?

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ15世王女 マリー・アデライード

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禁断の噂を持つ “ 未婚シスターズ ” のドン
ルイ15世王女 マリー・アデライード・ド・フランス

1732〜1800

王妃マリー・レクザンスカがたて続けに3人の王女を生んだもんで
ルイ15世はちょっとふてくされていましたが
1729年に王太子ルイ、1730年に次男フィリプが生まれてご機嫌が直ったようです。

四女マリー・アデライードは、ルイーズ・エリザベートアンリエットとともに
ヴェルサイユで育ちました。
        
アデラードも十代に入ると結婚が取沙汰されました。
しかし「君主じゃない男と結婚するぐらいなら一生独身の方がまし!」と言うアデライードを
ルイ15世が「よしよし」てな感じで許し、結局縁談は決まりませんでした。

どうやらルイ15世は「女ばっかり!」とこぼしていたにもかかわらず
王女たちをお嫁に出すのがいやだったようです。 困ったもんだ
なにせこの後に続く王女たちも皆未婚です。

お気に入りだったアンリエットが亡くなり、ポンパドゥール夫人の健康が衰えはじめると
ルイ15世の愛情は俄然アデライードに向かうようになります。
あ、愛妾は別だからね

しかし、毎朝お茶を飲むためにアデライードの部屋に行ったり遠乗りに連れていったりと
一緒にいる時間が増えた父王と王女はあまりに仲が良く近親相姦の噂がたったほどで
愛妾フランソワーズ・ド・シャリュが生んだとされるルイ・ド・ナルボンヌは
実はアデライードが生んだルイ15世の子だとまで言われました。

アデライードは、ルイ15世の王女たちの中で唯一政治に興味があったと言われています。
まずは兄の王太子ルイ、続いて甥の王太子ルイ(16世)に
自分の考えを吹き込もうとしました。 失敗に終わったようですが…

そしてポンパドゥール夫人をかなり敵視して、父王を通わせないように頑張っていました。
もちろんルイ15世の子供たちは皆ポンパドゥール夫人を嫌ってましたが
アデライードは人一倍激しかったらしい…もし噂が本当だったとすればうなずけますね。

ポンパドゥール夫人が亡くなり、デュ・バリー夫人が登場すると
アデライードの出番もめっきり少なくなります。
アラフォーにさしかかると、アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの未婚シスターズは
お互いの部屋に集まり、もっぱら編み物をしながら宮廷の噂話に耽っていました。
めったに正装することはなく、パニエの上にガウンを羽織っただけで過ごしました。
いかんいかん、おしゃれ心を忘れてはダメでないの!

そんなシスターズは王太子ルイの妃マリー・アントワネットの教育係に指名されます。
『ヴェルサイユの薔薇』で、マリー・アントワネットに
デュ・バリー夫人との徹底抗戦を吹き込んでいる三人組がいましたね?
それがこのシスターズだったのでした。

1789年7月、フランス革命勃発!
10月、パリの婦人たちがヴェルサイユ宮殿に向かって行進した日
アデライードは住み慣れた宮殿を後にしました。
ヴェルヴュ城に逃げ込んだ後、何度か拘束される目に遭いながら
1791年にイタリアへ向かいました。

イタリアには姪(兄の王太子ルイの王女)クロチルデや
マリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナなどがいましたが
皆革命の余波を恐れていてアデライードはイタリア内を点々とするハメに…
最後に訪れたトリエステで1800年に亡くなりました。

遺体はルイ18世の時代に入ってフランスへ送られサン=ドニに埋葬されました。

各国の王家の権威と安泰に翳りが見え始めた時期とはいえ
「結婚したくない!」というわがままが通って、子分のような妹たちに囲まれ
好き勝手な人生が送れたとは幸せな王女であったといえますね。

晩年はかなり波瀾万丈で、イタリアでは屈辱を味わったかもしれないけど
下々の民の苦しみを踏み台に栄華を誇った58年の人生の後に味わう10年の苦労でしょー?
私はあんまり同情しないわ…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
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