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Channel: まりっぺのお気楽読書
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スウェーデン王グスタフ6世妃 マルガレーテ

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旅先の恋が実を結ぶ
グスタフ6世妃 マルガレーテ・アヴ・コンノート

1882〜1920/在位せず

グスタフ5世が92歳という高齢で亡くなったため、即位した時には67歳だったという
長〜い王太子時代を送ったグスタフ5世は2回結婚しておられます。

一人目の妃はヴィクトリア女王の三男コンノート公アーサーの王女
マーガレット(マルガレーテ)です。
         
お年頃になったマルガレーテは、妹のパトリシアと並んで、ヨーロッパで最も美しく
プリンセスに相応しい女性だと言われていました。

伯父にあたるイギリス王エドワード7世は、二人を王太子=ゆくゆくは王クラスの
男性と結婚させたがっていました。

マルガレーテ23歳、パトリシア18歳の時、コンノート公一家はポルトガルを訪問しました。
この時、ポルトガル王太子マヌエル(後の2世)は姉妹のどちらかと結婚したがっていました。

スペインではアルフォンソ13世とパトリシアの結婚話がおおいに盛り上がりましたが
結局アルフォンソはヴィクトリア・デ・バッテンブルクと結婚しました。
どうも上手くまとまりませんな…

その後も旅は続き、エジプトのカイロでグスタフと出会いました。
二人はお互いにひと目ぼれしたそうでして、グスタフはイギリス領事館の晩餐の席で
マルガレーテに求婚、半年後には結婚しました。
中世の戦利品的な結婚は別として、けっこう異例の早さですよね。

マルガレーテが王太子妃になってから7年後の1914年、第一次世界大戦が開戦しました。
スウェーデンは中立を謳っておりましたが、やはり余波はありますよね。

マルガレーテは赤十字をサポートするために裁縫サークルを開催したり
パラフィン不足の折りにはコレクションのキャンドルを差し出しています。
現在ではお目にかかれないような綺麗なキャンドルもあったでしょうに…

他にも訓練を受けた少女たちに仕事を与える計画を発案したり
囚人たちの社会復帰にも尽力しました。
さすがヴィクトリア女王の孫… 堅実なプリンセスですね。

1920年、マルガレーテは6人目の子供を身ごもっていて、妊娠8ヶ月でしたが
胸の手術を受けました。
その後感染症にかかり、すぐに亡くなってしまいました。

長女イングリッドはデンマーク王フレデリク6世妃で
現女王マルグレーテ2世の母君にあたります。



              
偽名を使った王妃
グスタフ6世妃 ルイーゼ・アヴ・マウントバッテン

1889〜1965/在位 1950〜1965

で、しっかり者と思われる前妃マルガレーテを亡くしたグスタフ6世が
3年後に再婚したのが、変わり者と言われているルイーゼです。

マウントバッテンの名でおわかりの通り、イギリスのプリンセスです。
母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の次女アリスの長女です。

前妃マルガレーテとも親戚にあたります。
       

常々「ぜっっったいに王とか男やもめとは結婚しない!」と主張していたそうですが
34歳の時に、王で男やもめのグスタフと結婚しました。

子供っぽく激し易い性格だったみたいです。
ポメラニアンを何匹か飼っていて、いつも連れ歩いていました。
旅行にはグリップスホルム伯夫人とかオルセン夫人という偽名を使っていました。
歓迎の式典とか挨拶なんかが煩わしかったのかしらね?

ロンドンでバスにぶつかった時には “ 私はスウェーデン王妃 ” というカードを
携帯していたと言われています。
何年頃の話かわかりませんが、スケールのでかい徘徊でもしていたんでしょうか?

1964年のノーベル賞授賞式以降公の場に出ることがないまま
翌年大病の手術の後亡くなりました。

現在なら違った意味で人気者になるかもね…
ブリちゃんとかパリスと並んでお騒がせセレブのコーナーの常連になるかもしれませんな。

スウェーデン王妃は今回が最終回です。
このところあまりブログができず、草稿のストックが無いので焦ってます
一応予定はあるんですけどね… 次回シリーズまで今しばらくお待ち下さい。

(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedai英語版)

フランス王ロベール2世王女 アデール

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フランス草創期、大活躍した王女
ロベール2世王女 アデール・ド・フランス
ノルマン公リシャール3世妃/フランドル伯ボードゥアン5世夫人

1009〜1079

今回はフランスの王女編…
プリンセスといえば頭に浮かぶのは、フランス風キラキラビカビカな
ヴェルサイユ時代のフランスの宮廷女性たちですよね。
本当のフランス王女たちの人生はどんなものだったのでしょうね?

王妃同様カペー王家からまいります。

初代王ユーグ・カペーと王妃アデライードの間には何人か王女がいたらしいのですが
わかっているのはヘドヴィヒ(970頃〜1013)という王女がモンス伯ルノーに嫁いだことと
ジゼル(968頃〜1002)という王女がポンチュー伯ユーグ1世に嫁いだことだけです。

ヘドヴィヒとジゼルの兄弟にあたるロベール2世と
3人目の妃コンスタンス・ダルルの次女がアデールです。
長女アリックスはヌヴェール伯ルノー1世に嫁いでいます。

1027年にノルマン公リシャール3世と結婚しましたが、その年のうちに未亡人になりました。
翌年フランドル伯ボードゥアン5世と再婚しました。

        

アデールは実家の権威でフランドル伯家に大きな力をもたらしました。

兄のアンリ1世が亡くなると、夫共々甥である8歳のフィリプ1世の後見人になります。

フィリプ1世の摂政には母親のアンヌ・ド・キエヴが就いていたのですが
フランス語が堪能でないってことで反対意見がおこっていました。
アデールあたりが急先鋒だったんじゃないかしら? なんて… 憶測ですからね。
アンヌ失脚後は義理の兄としてボードゥアン5世が摂政に就きました(ほらね

しかし、大きな力を持つとその権力欲しさに家庭内がドロドロになるのが中世の常…

1071年、アデールの孫にあたるアルヌルフ3世が治めていたフランドルに
アデールの三男ロベールが攻め入りました。
この時アデールはフィリプ1世に頼んで、息子ではなく孫に加勢したんですけど
最終的にはロベールが勝利しフランドル伯になりました。
       
この戦いの1年後、フィリプ1世は、ロベールの継子ベルタと結婚しました。
仲直りのしるしですかね?

アデールは夫ボードゥアン5世の宗教政策、特に教会再建に影響力を持っていたらしく
アイル、リール、ハーレルベーケの教会系大学や
メセン、エナメの修道院などの設立に携わりました。

1067年にボードゥアン5世が亡くなるとローマを訪れ、教皇アレクサンデル2世から
修道女用のヴェールを授けられています。
これが最後の晴れ舞台で、その後はメセンに引退し、そこで亡くなりました。

ローマン・カトリック系教会では、アデールが亡くなった9月8日が記念日になっていて
これは聖人の日並みの扱いだそうです。
いっそのこと聖人にすればいいのにね? (無責任発言です
なにか奇跡がおきなかったのかしら?

お子様は5人で、長女マティルダがイングランド王ウィリアム1世に嫁ぎました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ1世王女 コンスタンス

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離婚を勝ち取った王女
フィリプ1世王女 コンスタンス・ド・フランス
シャンパーニュ伯ユーグ夫人/アンティオキア公ボエモン1世妃

1078〜1126

ロベール2世のあとを継いだアンリ1世とアンヌ・ド・キエヴには
エンマという王女が生まれましたが幼くして亡くなっています。

アンリ1世の王子フィリプ1世には二人王女がいますが、母親はバラバラです。

長女コンスタンスの母親は、フィリプ1世のいとこの娘にあたるベルタ・ド・ホランドです。
        
15歳〜17歳の間にシャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。

フィリプ1世はベルタと離婚し、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラドを奪うようにして
再婚したので、アンジュー伯から恨みを買ってました。
そこで対抗措置として、当時最も勢力があったブロワ家の力を得ようとしたわけです。
なんだかひどい話じゃなくて?

けれどもフィリプ1世の思惑通りにはいきせんでした。
ユーグの兄エチエンヌがブロワ家の領地のほとんどを持っていましたし
ウィリアム1世王女アディラと結婚していまして
ほいほいとフィリプの言うことを聞いてくれるわけではなかったんですね。

当時のフランスでは、カペー家が王になっているとはいえ、ノルマン公とか
アキテーヌ公とかブロワ伯とか、王に引けを取らない力を持つ家柄がありました。
ノルマン家は隣国の王になっちゃうし、アキテーヌ公なんて王より広い領土を持ってるし…
王=王侯貴族の班長、みたいなものでしょうか? 国を治めてるってかんじじゃないですね。

結婚から10年後、コンスタンスはいきなりシャンパーニュ伯との離婚を申し立てます。
理由ははっきりしていません。
この離婚、父王フィリプ1世はまったく手を貸そうとしませんでしたが
弟のルイ(後の6世)と、義姉のブロワ伯夫人アディラが全面的にバックアップしました。

離婚申し立ての理由はなんだったんでしょうね? 気になるわ…
その後ユーグはブルゴーニュ伯エチエンヌ1世の娘イザベルと再婚してますが
後にイザベルと息子ウードと縁を切っています。

コンスタンスは1104年に離婚を勝ち取りました。
ちょうどその頃アンティオキア公ボエモン1世がヨーロッパに戻っていました。
ボエモン1世は十字軍の援護とともに妻を必要としていました。

コンスタンスの離婚はグッドタイミング!
フランス王女との結婚で格は上がるし、援軍だって出してもらえるかもしれません。
        
ボエモン1世は結婚後に34,000人の援軍を得てビザンツ(東ローマ)帝国を攻撃しました。
しかしヴェネチアの援護を得たアレクシオス1世は強かった!
ボエモン1世は和平を受け入れたばかりか
アレクシオス1世から報酬をもらう、所謂 “ 臣下 ” になってしまったとさ
コンスタンスはボエモンのいるアプリア(イタリアのプーリア)に移ります。
この間アンティオキアはボエモンの甥タンクレッドが摂政として治めていました。
ちなみにタンクレッドはコンスタンスの異母妹セシルと結婚しました。

ボエモン1世が1111年に亡くなり、1112年に摂政タンクレッドが亡くなると
コンスタンスは5歳の息子ボエモン2世の摂政になりました。
しかしその後バーリ伯グリマルドに投獄されてしまいます。
1120年に摂政を降りる条件で釈放され、1126年に亡くなりました。

成人した子供はボエモン1世との間に生まれた唯一の嫡子ボエモン2世だけです。
孫娘コンスタンチェの娘にビザンツ皇帝マヌエル1世妃マリアと
ハンガリー王ベーラ3世妃アンナがいます。

コンスタンスというよりボエモン1世のエピソードばかりですね。
古い時代にいけばいくほど、女性の記録はあまり残ってないのですね。
余程の偉業が無い限り、美しい(という言い伝え)かものすごい悪女か…
そういう人しか残されてないみたいです。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ1世王女 セシル

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夫に再婚相手を指名されるってどうよ?
フィリプ1世王女 セシル・ド・フランス
ガラリヤ公タンクレッド妃/ポンス・ド・トリポリ夫人

1097〜1145

フィリプ1世とベルトラド・ド・モンフォールの王女セシルとタンクレッドの縁談は
タンクレッドの叔父にあたるアンティオキア公ボエモン1世が
フランス宮廷を訪問中に持ち上がりました。
たぶん異母姉コンスタンスの縁談と同時じゃないでしょうかね?

なんと! 9歳 でアンティオキアに嫁ぎました。
お相手のタンクレッドは20歳ぐらい年上です。
        
タンクレッドはアンティオキア公国建国に携わった人で
ボエモン1世が捕虜になったり、ビザンツの臣下になって
アプリア(イタリア)で暮らしていた間、摂政として実権を握っていた人でした。

タンクレッドはボエモン1世が亡くなった翌年の1112年に亡くなったのですが
その前に妻のセシルとトリポリ伯ポンスを婚約させて持参金に領地まで与えています。

若い(15歳!)未亡人を不憫に思ってのことでしょうか?
それともアンティオキアの安泰を願ってのことでしょうかね?
なんたってボエモン2世は4歳ですから、後ろ盾を増やしておきたかったのかもしれません。
アンティオキアやイェルサレム、ニカイアなどは
キリスト教国が十字軍遠征の際に建国した国です。
気を抜いてるとトルコとかビザンツ帝国に狙われてしまうのでね。

二人が暮らしていたトリポリ(リビア)も同じような境遇で
1133年には夫ポンスがイスラム教国軍に包囲されてしまいました。

この時セシルは異父兄イェルサレム王フルク5世に助けを求めました。
一時は包囲が解かれたものの、4年後に再び包囲されポンスは亡くなります。
        
セシルは1145年に亡くなり聖墳墓教会(イェルサレム)に葬られました。

国内旅行さえままならない時代に、文化も気候も風景も全く違う国へ、
しかも二度と帰って来れる見込みがなさそうな状況で、しかも9歳で嫁ぐって
想像しただけでものすごく可哀想…
王女の人生って、古い時代にいけばいくほど過酷なような気がしてます。



影は薄いが家系図は賑やか
ルイ6世王女 コンスタンス・ド・フランス
ブローニュ伯ウスタシュ4世夫人/トゥールーズ伯レーモン5世夫人

1124〜1176

ルイ6世とアデル・ド・サヴォワには8人のお子様が生まれていますが
王女はコンスタンスひとりでだけです。

18歳でイングランド王スティーヴンの王子ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚しました。
      
ウスタシュは1153年に突然亡くなってしまいまして
翌年、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚しました。
       
子供は4人生まれたんですが、1165年に血縁関係が近すぎるという理由で
教会から離婚を宣言されてしまいました。
近いったってさぁ〜、結婚から12年もたって言われましても…って気がしない?
ちなみにレーモンはコンスタンスより10歳年下なんですよね。
愛妾がいたようで1192年に娘が生まれてます。

当時の教会の「血縁によるうんぬんかんぬん…」という離婚理由は
けっこういい加減なのよね、いとこ同士とかおじと姪の結婚なんか腐るほどあるし。
権力とか寄付金とかに、かなり左右されていたんじゃないかと… (ひとり言)

コンスタンスは1176年に亡くなりました。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ7世王女 マリー

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父の再婚で人生ごたつく
ルイ7世王女 マリー・ド・フランス
シャンパーニュ伯アンリ1世夫人

1145〜1198

ルイ7世は3回結婚していて、王女が5人います。
欲しくて欲しくてたまらなかった王子はフィリプ(2世)のみでした。

長女マリーと次女アリックスは最初の妃アリエノール・ダキテーヌの娘です。
ルイ7世は三人目の妃アデル・ド・シャンパーニュと結婚する時に
マリーをアデルの長兄シャンパーニュ伯アンリ1世と、
アリックスを次兄のブロワ伯ティボー5世と婚約させました。
二人の姉妹は婚約後アヴネの修道院で、無菌状態(?)で教育されて
1164年に揃って結婚しました。
         
それでなくても広大な領地を持ち、勢力もあったブロワ・ブラザーズは
妹は王妃、妻は王女というビッグな後ろ盾を得てかなり幅を利かせることができました。

ルイ7世の再婚と王女たちの結婚はアリエノールを焦らせます。
これが王子ヘンリーと、ルイ7世王女マルグリットの結婚を急がせる要因になりました。

父王ルイ7世が亡くなり異母弟フィリプ2世が即位すると状況が変わります。
フィリプは、アリエノール・ダキテーヌがマリーやアリックスに譲った領地を没収します。
それから、マリーの長男アンリと婚約していたイザベル・ド・エノーと結婚してしまいます。
       
このことでマリーとフィリプは当然仲違いします。
一方異父弟のイングランド王リチャード1世とは深い愛情で結ばれていたようです。
(解説しておきますと、リチャード1世は、マリーの母アリエノールが
 イングランド王ヘンリー2世と再婚しまして生まれた王子です)

そのアンリは、ヘンリー2世の従姉妹にあたるイェルサレム女王イザベラと結婚しました。
フランスとイングランドの覇権を争うこの二家族、仲が良んだか悪いんだか、
仲良くしたいんだか争いたいんだか、よくわからんよ…
この状況は後々まで続くんですけどね…
        
1181年、巡礼に行っていた夫アンリが帰国してすぐに亡くなりました。
マリーは幼い息子の摂政を務めます。
息子アンリの婚約者だったイザベルの叔父にあたるフランドル伯フィリプ1世と
再婚話が持ち上がりましたが、これは破談になっています。
ちなみにフィリプはポルトガル王アフォンソ1世の王女テレサと結婚しました。

性格とか容姿に関することがわからないんだけど
文学のパトロンで、専用の図書館を持っていて、ラテン語で読み書きができたというから
才媛だったのかもしれませんね。
夫の不在中や息子の不在中に幾度も摂政を務めていますから
政治的にもきれる人だったのかもしれません。

息子アンリが1197年に亡くなると、モーの修道院に入り翌年亡くなりました。

妹のアリックスも同じような経歴なので割愛しますね。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ7世王女 アデール

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              肖像画が無いので母君コンスタンス像を…

イングランドで人生台無し・・・
ルイ7世王女 アデール・ド・フランス
ポンチュー伯ギョーム4世夫人

1160〜1220

ルイ7世の三女マルグリットと四女アデールの母親は
二人目の妃コンスタンス・ド・カスティーヨです。

一人目の妃アリエノール・ダキーテーヌが、イングランド王ヘンリー2世と再婚したことで
領土をめぐるイングランドのプランタジネットとフランスのカペー両王家の
押したり引いたりは激しさを増してまいりました。

コンスタンス・ド・カスティーヨの死後、ルイ7世がアデール・ド・シャンパーニュと結婚し
アリエノールの王女二人がアデルの兄たちと婚約すると、イングランドサイドは
いてもたってもいられず、次男ヘンリーとマルグリット(なんと2歳 )の結婚を急ぎます。

また、1162年には三男リチャード(3世)と、アデールを婚約させました。

         

2歳で婚約したアデールは、8歳の時にイングランドに渡りました。
イングランドで未来の王妃教育を受けるとは言っても、早い話人質ですよね。

それから何年かたちまして、リチャードとアデールがお互い適齢期に達したのですが
ヘンリー2世はいっこうに二人を結婚させようとしませんでした。
婚約から8年後にはローマ教皇アレクサンデル3世が禁令までちらつかせて
結婚をせまりましたが、それでも渋っていました。

アデールはヘンリー2世の愛妾で、子供まで生んでいるという噂が広まっていました。
実際はどうだったのか不明です。
でも、1189年にヘンリー2世が亡くなるとリチャードが婚約者のアデールではなくて
ベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚したりとか
父王ヘンリー2世に激しく反抗して廃人同然になるまで打ちのめしちゃったことを考えると
やはり事実に近いんでしょうかねぇ…

婚約者のまま29歳になり、別の女性と結婚されちゃったアデールはいったい… ?
アデールの異母弟フィリプ2世は、リチャードの弟のジョンとの結婚をもちかけましたが
これはアリエノールが断固拒否!!

結局フランスへ戻り、1195年にポンチュー伯ギョーム4世と結婚しました。
このギョーム4世という方、アデールより19歳年下ですし、初婚ですし
何より悪い噂がある女生との結婚でしょー、
穿った見方をすれば、なんかすごい見返りがあったんではないかと…

アデールの次女マリーとシモン・ド・ダムマルタンの娘ジョアンが
カスティーリャ王フェルナンド3世に嫁ぎ、その王女エリナー
ヘンリー2世の曾孫にあたるエドワード1世の妃になります。
なんだかんだで繋がるものね…

1220年頃に亡くなりました。

ヘンリー2世の愛妾といえばロザモンド・クリフォードが有名です。
アデールはフランス王女だから、もっとエピソードフルな資料がないかしら?
と探してみましたが、日本語版では見つけられませんでした。
さすがにイギリスにはいくつかあるようです。

(参考文献 森護氏『英国王と愛人たち』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

『片隅の人生』孤独な男がいっぱい・・・

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THE NARROW CORNER 
1932年 サマセット・モーム

モームが60歳ぐらいで書いた長編なんですけど、読み終わって真っ先に感じたのは
“ 結局人は独り ” 的な孤独感と、なんか女に手厳しい…という理不尽さでしょうか。

福州で開業している英国人の医師サンダースが、診察のためマレー群島の孤島タカナ島に
はるばる出かけたことから物語が始まります。

サンダースはその島で、調子が良くて胡散臭いが腕はいいニコルズという船長と
謎が多い美青年のフレッド・ブレイクに出会います。

ニコルズは正規の船では働けない理由があるようです。
フレッドは偽名を使い、身分を隠しているようです。
二人は気が合わないらしく、楽しい航海をしているようには見えません。

帰りの船を待ちくたびれたドクター・サンダースは二人の船に乗せてもらうことにします。

三人が乗った立派とは言い難い船は大海で大風に遭いますが
難破の危険を切り抜けオランダ領カンダ・メイラに到着しました。

カンダ・メイラのホテルで、エリックという正直で純粋なデンマーク人と知り合いました。
それまであまり明るい顔を見せなかったフレッドはエリックと意気投合して
若々しさと無邪気さを見せるようになります。

三人はエリックの紹介で島に住むフリスという英国人の一家を訪ねることになりました。
フリスは誰も喜びそうもない東洋哲学や詩に没頭している好人物でした。
元船乗りでわがまま放題の義理の父親と、とても美しく落ち着いた娘のルイズと
三人で暮らしています。
フレッドとルイズはお互いに惹かれたようでした。

で、ここからはお茶を濁すけど、ルイズはエリックの婚約者なんですね。
エリックはルイズが大人になるのを心待ちにしているんだけれども
フレッドが夜中にルイズの寝室から出てくるところを目撃してしまい… おぉぉ

そしてルイズがエリックと婚約していたことを知り
大好きな友人を裏切ってしまったことに苦しむフレッドは… むむぅ

そして涙ながらにドクター・サンダースに語った過去とは… うぅぅ

ドクター・サンダースは二人と別れて別の船で島を発ちます。
1ヶ月後、シンガポールでばったりニコルズに出会ったサンダースは
フレッドの衝撃的なその後を聞かされます。

内容はというと、モームお得意の植民地が舞台で、海や空の描写もふんだんにあり
冒険もあり恋もありと、それなりに面白い話ではあったのですが
なんていうの… いつものモームと違って、なんだか女性を悪者に仕立ててる気がするの。

モームはもともと女性のことを優しく描写してくれる人ではないけれど
あまり誰かの非を責めるような書き方はしない気がしてたんですけどね。

今回は、もう何が悪いって女が悪い! と決めつけてる感じ。
こっちにすれば、男の方だってどうなのさ と言いたくなるんですけどね。

それから、男性陣の独ぼっち感というか独り好き感が滲み出てます。
多くの人と関わらず、煩わしい付き合いは避け、
独りの時間を愛するっていう人ばかりが登場してるみたい。

でも、気楽で自由なように書かれているけど、なぜか寂しさが感じられるんですよ。
好き好んで自由なわけではない、やむを得ない気ままな暮らし、とでも申しましょうか。
独りぼっちの負け惜しみと言ってもよいかもしれません。

実は女性より男性の方が寂しがり屋で孤独に弱いと踏んでるんですけどいかがでしょう?

フランス王ルイ7世王女 アニェス

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             肖像画が無いので義母マリア・アンティオキア像

異国の地でたらい回し
ルイ7世王女 アニェス・ド・フランス
ビザンツ皇帝アレクシオス2世皇后/ビザンツ皇帝アンドロニコス1世皇后
テオドール・ブラナス夫人

1171〜1204/在位 (アレクシオス2世皇后)1180
          (アンドロニコス1世皇后)1183〜1185

ルイ7世の末娘アニェスの母親は3人目の妃アデール・ド・シャンパーニュです。

         
アニェスは、ビザンツ皇帝マヌエルの皇太子アレクシオス(2世)に嫁ぐため
7歳の時にフランスを出て、8歳の時にコンスタンティノープルに到着しました。
幼い娘を送り出すルイ7世の親心からものすごく飾りたてられていたそうです。

同じ頃、異母姉のアデールもイングランドに送り出されました。
二人はその後顔を合わせることが無かったと考えられています。

マヌエル1世はイタリア奪回・古代ローマ帝国再興という夢を抱いていて
“ 神聖ローマ帝国 ” なんてぇ帝国があることが許せませんでした。
そこで神聖ローマへの対抗策としてフランスと手を結ぶことに…
ルイ7世もビザンツ帝国の華やかさは、十字軍の際に訪れて知っていたので
アニェスを嫁がせることに決めました。

アニェスの歓迎式典は豪華絢爛でビザンツ帝国史上最も華やかなものだったそうです。

 ひとくち情報
当時の結婚事情では、本当は8歳で結婚しちゃいけなかったそうです。 でも10歳からは良かったらしい…
姉のアデールは教育のために海を渡ってますが、アニェスは到着して半年ぐらいで結婚式をあげたばかりか
“ 完全に ” 結婚を成し遂げたっていうことです。 床入りをしたということか? 10歳と8歳で… 

アニェスはコンスタンティノープルの美しさときらびやかさに歓び
幸せなスタートをきりました。
名前はアンナに改名されました。

しかし、幸福は長くは続きませんでした。
結婚式の半年後、ビザンツ帝国最後の栄華を担ったマヌエル1世が亡くなりました。
アニェスの夫アレクシオスが即位しますが10歳ですものね。
実権は摂政であるマヌエル1世皇后マリア・アンティオキアが握っていました。
ま、それはいいんだけどさ… 幼い王を抱えたお母様摂政は政敵に狙われ易いものです。

まずは、摂政の座を狙って、アレクシオス2世の異母姉マリアが暗躍しました。
これは事なきを得たんですが、続いてマヌエル1世の従兄弟アンドロニコスが
「待ってました!」と反乱をおこしました。

1182年、アンドロニコスは皇太后マリアを失脚させて摂政につきます。
そして異母姉マリア夫婦を殺害、その後皇太后マリアを処刑しました。
もうアレクシオス2世の運命は決まったようなものです。
アンドロニコスは、1183年に共同皇帝になるとすぐにアレクシオスを殺害して
単独で皇帝の座に就きました。

古代ローマでもあったような気がするんですけど、ビザンツ帝国でも
無理くり皇帝になった人が、前皇帝の皇后と結婚して地位をかためることがあったようです。

しかしアニェスは12歳、アンドロニコスは65歳ぐらい… さすがに躊躇したようで
息子のマヌエルと結婚させようとしました。
ここらへんは少し見直した… ルイ15世だったら躊躇しないわね。

この縁談を息子マヌエルが拒否したため、アンドロニコスは “ しかたなく ”
アニェスと結婚することにしたようです。
ちなみに、アンドロニコス1世は二人の姪や皇太后マリアの姉妹などを愛妾にしてました。

こんな再婚、ひどすぎる!
短い間とはいえ夫婦として過ごし、少し愛も感じていた夫を殺した(しかも自ら手を下した)
相手(しかもすげぇ年上)と結婚しなきゃならないなんて

この結婚は内外から非難されましたし、アニェスも泣き暮らしたようなんですが
実家のフランスはなんら抗議しなかったらしい… フィリプ2世は実の兄なのに…
フィリプ2世は十字軍に参加したときもコンスタンティノープル素通りで
アニェスを訪ねることはありませんでした。
ハンガリー王妃になっていたマルグリットも巡礼の時にビザンツを通りましたが
アニェスには会わなかった様子… こちらは異母姉だからなぁ… でもせっかく来たのにさぁ…

1185年、アンドロニコス1世は市民の暴動に遭って失脚します。
なんでもアニェスだけでなく愛妾も連れて逃げたそうで、すぐに捕らえられ
市民のリンチを受けて殺されました。

フランス王女のアニェスはリンチから免れ、アンドロニコスの財産が少し与えられましたが
その後の消息ははっきりしていません。

1193年にはテオドシウス・ブラナスの恋人になっていました。
どうやらそれまでブラナス家で養ってもらっていたみたいです。
その後のアニェスはブラナス夫人として扱われていましたが
財産の件があって正式な結婚はしないまま時が過ぎていきました。

1204年、十字軍によるコンスタンティノープル陥落の後
アニェスは元ビザンツ皇后として、再びヨーロッパ貴族から注目を集める存在になりました。
けれどもアニェスはフランス語を忘れてしまっていて通訳を介してしか話せず
次第に評判を落としていきました。
でもこの年にやっと、アニェスとブラナスは正式に結婚しています。

遠い記憶にしかないヨーロッパの貴族たちの評判なんかより、
愛する人とちゃんと結婚できて、アニェスは幸せだったんじゃないでしょうかね?

ビザンツ帝国は各国から覇権を争われ、いろいろな民族の皇帝が現れてわやくちゃになり
テオドシウスは国内で一時期裏切り者よばわりされたりするんですけど
1219年以降の消息は不明です。
アニェスについても1204年まったく記録が無いのですが1219年以降まで
生存していたようです。

すごく波瀾万丈な一生だったわりに最期がはっきりしないとは…
ブラナス家は軍人としては名門で、父親も英雄となった人らしいのですが
やはり皇后じゃないと記録に残らないか…
せめて立派な墓所に葬られていることを願います。

(参考文献 井上浩一氏『ビザンツ皇妃列伝』 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ2世王女 マリー

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                肖像画が無いので母アニェス像

父王の横暴で身分が定まらず
フィリプ2世王女 マリー・ド・フランス
ナミュール公フィリプ1世妃/ブラバント公ハインリヒ1世妃

1198〜1238

以前わたくしがさんざんぱら悪口を書いたフィリプ2世は3度結婚しています。
王女はマリーだけで、三人目の妃アニェス・ド・メラニーの子です。

フィリプ2世は二人目の妃インゲボルグと強制的に離婚しアニェスと結婚しましたが
この結婚をローマ教皇インノケンティウス3世は認めませんでした。
フィリプの要請でなんとかマリーと弟のフィリプは嫡子となることができました。

しかし、1213年、幽閉されていたインゲボルグの復帰で
マリーとフィリプは庶子になりました。

         

マリーは2歳の時にスコットランド王子アレグザンダー(2世)と婚約していました。
この婚約は4歳の時に破棄されます。
なんでしょね? インゲボルグの実家デンマークからのクレームでしょうか?

すぐにイングランド王ジョンと敵対していたブルターニュ公アルチュールとの
婚約が決まりましたが、翌年アルチュールが行方知れずになったため消滅しました。

ちなみに、スコットランド王アレグザンダー2世は後に
ジョン王の王女ジョアンと結婚しました。

        

結局マリーはナミュール公フィリプ1世と結婚しました。
フィリプの姉イザベルはフィリプ2世の最初の妃です。

フランドル家は当時フランスと戦争中で、フィリプは投獄されていました。
許されぬ恋かしら? だとしたらロマンティックですね。
実際はたぶんフランドル家を懐柔する狙いがあったと思われますが
ともあれ、フィリプはマリーとの結婚で自由を得ることができました。
でもフランドルとエノーの貴族は大激怒!そりゃそうだわね。

子供ができないまま、フィリプは1212年に亡くなりました。

マリーは翌年、ブラバント公ハインリヒ1世と再婚しました。
ハインリヒの前妃はイングランド王スティーヴン王女マリーの娘マチルダです。
女の子が二人生まれていますが、妹の方は若くして亡くなっています。
ハインリヒ1世と最初の妃マチルダの長女マリーは神聖ローマ皇后になったりしてるんですけど
マリーの娘はそんなにいい縁談がこなかったみたいです。

40歳で亡くなりアーフリゲム(ベルギー)の修道院に葬られました。

フィリプ2世とマリーの母アニェスの結婚が認められていたらどうだったでしょう?
なんたって唯一のフランス王女ですから、人生が違っていたかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

『生きる歓び』天使のような心が仇となる

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LA JOIE DE VIVRE 
1884年 エミール・ゾラ

ゾラが描くルーゴン・マッカール叢書の登場人物の壮絶な人生は
ハラハラさせられ、心苦しくなりながらも嫌いになれないのですが
この物語のポリーヌの生き様はどうも納得いかないですねぇ。
(とはいえ、まだ読んでない物語も多いのですけどね… )

物語をかいつまんでご紹介しますと…

主人公ポリーヌは『パリの胃袋』でフロランがお世話になった
弟クニュと妻リザの娘です。

『パリの胃袋』では勝利を得たクニュ夫妻は、ほどなくして亡くなってしまったようで
ポリーヌは10歳でこの世に遺されてしまいました。

そこで北フランスの海沿いの村に住む父のいとこシャントーに引き取られます。
シャントーは商売から引退し、痛風に苦しみながら毎日を送っています。
シャントー夫人は目減りする年金を嘆き、息子ラザールに期待をかけています。
ラザールはというと、好人物なんだけど夢見がちで飽きっぽい青年でした。

お互いに本当の兄妹のような愛情を抱いていたポリーヌとラザールでしたが
何年も一緒にいるうちに、ポリーヌにはだんだん別の感情が芽生えます。

ラザールは音楽家になると言ったり、医者を目指したりするんですが結局ものにならず
知人と事業を興そうと考えます。

そこで初めてポリーヌの遺産に手が付けられます。
その後はなし崩し… シャントー夫人は家計のたしに、ラザールは事業の追加資金に…
どんどん膨らむ借金にシャントー夫人はラザールとポリーヌを結婚させようと考えます。

でも、自分たちがどんどん借りるわけだからポリーヌの遺産は減るじゃない?
そこへ登場するのが銀行家の娘ルイズで、彼女の持参金はすごいもんだと聞かされます。

シャントー夫人には別の野望が浮かび、ポリーヌを恨むようになります。
結局すったもんだの末セザールはルイズと結婚します。
それも、もう遺産でセザールを助けられなくなったからというポリーヌの説得で…

長年シャントーのかかりつけで、幼い頃からポリーヌを知っている医者カズノーヴは
言われるままに遺産を出し、学校にも行けず女中や看護婦のように働かされた挙げ句
他の女性にセザールを譲ったポリーヌが不憫で、何度か出て行くチャンスを与えました。
あぁ それなのに〜、その度に事件が起こってしまって…

とにかく、ポリーヌの10歳からの人生は、まるで人のための人生のようです。

痛風がひどくなるとあたるくせに、出て行かないでくれと泣くシャントーでしょ
家事をさせといて文句たらたらで、最後は毒を入れたなんて疑うシャントー夫人でしょ
まったく生活力が無いくせに夢ばかりみてポリーヌを巻き込むセザールでしょ
家事一切ができず、ポリーヌに任せきりのルイズでしょ… 書いててうんざりしちゃう。

そればかりか、貧しい村の若者たちまで働かずにポリーヌがくれる施しに頼り切ってます。

ラストでは、代々シャントー一家に尽くしていくんじゃなかろうか? とも思えて
カズノーヴならずとも止めたくなるところ… 自分の人生を生きて欲しい。

憐れみと慈愛の心のみで人と接すること、優しさと愛情だけを美徳として生きることが
果たして正解なのかちょっとわからなくなってきます。
シャントー一家も村の若者たちも、つい楽な方を選んじゃった… ていう気がします。
世の中自分に厳しい人ばかりじゃないものね。

ゾラは見事に我が身を顧みない女性を描き切ったわけですけれども、共感はできない…
私の辞書には “ 献身 ” とか “ 身を捧げる ” っていう言葉が無いのでね

ちなみに、ポリーヌは『ナナ』の同い年の従姉妹だそうです。
たぶん会ったことはないんじゃないかと思うけど
血が繋がっていながら、こうも両極端の女性がいるとはね。
あ! 物語だったんだ

フランス王ルイ8世王女 聖イザベル

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俗世の男性より神を選ぶ
ルイ8世王女 イザベル・ド・フランス

1225〜1270

ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーヨには13人のお子さんがいまして
そのうち王女は3人ですが、長女ブランシェと次女アニェスはすぐ亡くなってしまいました。
長女ブランシェの誕生から20年後、12番目の子として生まれたのがイザベルです。
            
父王ルイ8世はイザベルが1歳の時に亡くなると、母ブランシュがルイ9世の摂政に就き
幼い子供たちの教育を一手に引き受けることになりました。
どうやらブランシュの教育方針が敬虔だったみたいですね。
兄のルイ9世は聖王と呼ばれていますし、イザベルも幼い頃から信心深い子供でした。

イザベルは王家の言いつけよりもフランシスコ派の聖職者たちの教えを尊重していました。

唯一のフランス王女ってわけで、イザベルにも各国からの縁談が舞い込みます。
けれどもイザベルはいくつかの婚約を破棄しました。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と皇后イザベラの皇子コンラートとの縁談は
ローマ教皇インノケンティウス4世も承認していたものでしたが、これも固辞しました。

インノケンティウス4世は神聖ローマ側に圧されてしぶしぶ結婚を承認してたのかしら?
すぐに「神に身を捧げ処女として生きることを決心するとは!」と賞讃を与えました。
だって、ものすごい広告塔になるものねぇ…

しかし一人しかいない王女を政治に利用しないとは…当時では考えられないことですね。
母ブランシュが敬虔な娘を後押ししたんでしょうかね?
だとしたら、母親の言いなりだったルイ9世も黙認するしかありませんな。

教皇のお言葉に気をよくしたのか、イザベルはクレア派の修道院を建てたいと考えます。
優しい兄ちゃんルイ9世は妹のために、ルブレの土地を手に入れてあげました。

イザベルは修道院長になることは拒み修道院で暮らすこともありませんでしたが
聖職者は自ら厳選し、わざわざ修道院の近所に移ってます。
なんかさぁ、オーナーとして、近くで雇われ社長(修道院長)に睨みを効かす感じですか?
だったらいっそのこと社長(修道院長)になってくれた方がまわりも気が楽なんじゃない?
オーナーの “ 鶴の一声 ” で騒動になる会社(球団か…)もあるんだからさぁ…

そんなことを一介の信者がやっていいのかね? と甚だ疑問なんですけど
イザベルは教義の改訂なんかもやっちゃってます。
そんなこと勝手にしたら教皇が怒り心頭で破門するんじゃないの? と思いきや
フランスやイタリアの修道院で取り入れられたそうですよ。
カトリックの教義に則った改訂だったんでしょうね。

影のオーナーなんて言っちゃったけど、イザベルはその後も信仰篤く
病人や貧しい人々に手を差しのべ続けて人生を送りました。

1270年にロンシャンで亡くなりました。
で、ここからが聖人伝説なんですけど、教会の墓地に埋葬されたイザベラを
9日後に掘り出してみると(なぜに掘り出す?)まったくもって腐食がなかったらしい…
そして墓石にはたくさんの奇跡の跡が残っていたらしい…

イザベルは列聖されてはいないようなんですけれども
1521年にローマ教皇10世がロンシャン修道院でイザベルを讃えることを許可しました。

そんなエピソードが残るロンシャン修道院ですが、フランス革命の際に閉ざされ
売りに出されましたが購入者が見つからず取り壊されたそうです。
もったいないですね フランス革命軍は見境なしだからさぁ…
由緒あるものは遺しとけばいいじゃない?
修道院があった場所は1857年以降、ブローニュの森になっております。

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ9世王女 イザベル

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純情すぎた王女
ルイ9世王女 イザベル・ド・フランス
ナヴァール王テオバルド2世妃

1241〜1271/在位 1258〜1271

聖王とよばれたルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスには
フィリプ3世を含む11人のお子さんが生まれまして、王女は5人です。
長女ブランシュは3歳で亡くなっています。

次女イザベルはナヴァールと和平を築きたかったルイ9世の意向で
テオバルドに嫁ぐことになりました。
            
テオバルドが18歳、イザベルが13歳の時に結婚しました。

花嫁が幼いので、新婚当時はもっともだと思われるんですが
この二人、極度に内気で恥ずかしがりやだったということで
一緒に眠る時も服を脱がなかったと言われています。

かなり前にNHKでやっていた(主にフランス)王家とカトリックの番組を思い出した!
まだ教皇の権限が絶大でカトリックが崇め奉られていた当時
快楽のみのセックスは罪とされていたんですって。
でも後継ぎは生まなけりゃいけない、ってわけで
胸のところと脚の付け根のところに穴が開いた、ゴワゴワの麻袋みたいな服を着て
痛みを伴いながら床入りをしていたっていう内容だったわけですが…
胸のところも穴が開いてるっていうのがさぁ… 逆にいやらしくないですか?

閑話休題

だからかどうか、テオバルドとイザベルには子供はいなかったといわれておりますが
近頃では16歳ぐらいで子供が生まれたという説もあるそうです。

敬虔なイザベルは、父王ルイ9世とテオバルド2世が参加した第8回十字軍に同行しました。
しかし、遠征中の1270年8月にまずルイ9世が、12月にテオバルド2世が亡くなりました。

ブランシュは妊娠中だったと言われています。
フランスに戻りプロヴァンス(Provence)で過ごしましたが
2ヶ月後に出産で亡くなったとされています。
夫が眠るプロヴァン(Provins)に埋葬されました。

死に瀕したイザベルが何をしたかって言うと…
「死体をしっかりくるんで、骨になるまで一部分でも肌が見えないようにしなさい」と
侍女に言いつけたそうです。

さすが聖王の娘! って、他に言い残すことはなかったんでしょうか?



              
わざわざスペインに嫁いだのに…王妃にも王大后にもなれなかった
ルイ9世王女 ブランシュ・ド・フランス
カスティーリャ王子フェルディナンド妃

1253〜1323

三女ブランシュは、ルイ9世が第7回十字軍に参加し、捕虜になっている間に生まれました。

1268年にカスティーリャ王アルフォンソ10世の王子フェルディナンドと結婚しました。
ルイ9世の長男ルイはフェルディナンドの姉ベレンガリアと婚約してますので
(長男)ルイが16歳で亡くならなければダブル婚となったんでようね。

結婚から7年後、フェルディナンドが父王に先立ち亡くなります。

ブランシュには二人の王子が遺されましたが、まだ王位継承権はありませんでした。
フェルディナンドの弟サンチョが「自分が王だ」と言い張りまして
兄のフィリプ3世はカスティーリャ侵攻まで考えたのですが
結局サンチョが父王アルフォンソ10世までも倒して即位します。
        
ブランシュはフランスに帰り、二度とカスティーリャには戻りませんでした。
二人の王子は祖母のヴィオランテ・ディ・アラゴンが必死でサンチョ4世から守り抜きました。

二人の王子アルフォンソとフェルナンドはカスティーリャ王位を奪い返そうと
アラゴンなんかの力を借りて戦ったようですが、王になることはかないませんでした。

ブランシュはパリで亡くなっています。

アルフォンソは後にシャルル9世から称号をもらってますんで
フランスに行ったんじゃないかしらね?
その時に母ブランシュと会えていたらいいんですけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ9世王女 マルグリート

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                こちらは五女アニェスです

完璧な男性を手にした王女
ルイ9世王女 マルグリート・ド・フランス
ブラバント公ヨハン1世妃

1254〜1271

ルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスの四女マルグリートは
3歳の時にブラバント公ハインリヒ4世と婚約しました。

ところが、ハインリヒがあまりに低能だということで婚約が破棄されました。

中世って、けっこうおバカさんとか乱暴者とか狂気を孕んだ人なんかが
平気で即位して結婚もしてたもんだと思ってるんですが、こういうこともあるんですね。

ハインリヒは1267年に廃位されて弟のヨハン(ジャン)がブラバント公になり
兄の婚約者だったマルグリートと1270年に結婚しました。
            

ヨハンは当時の封建的社会において、完璧なプリンスの一人と言われていました。
どんな方だったかあげてみますと…
騎士道精神に富み、勇敢で、正義感溢れ、スポーツ万能。
おまけに人柄が良いってことで人気者。
当時の詩や物語にも数多く登場しています。

当然もてますな…
というわけで庶子もたくさんいました。
美しい貴婦人たちとの恋愛沙汰も、人気者の証しってことになるんでしょうね。

マルグリートは結婚後すぐに妊娠しましたが、出産の時に母子ともに亡くなりました。
一瞬でも “ 完璧な男性 ” の妻になれて幸せだったかしらね?
なかなかいるもんじゃないし…



隠れたやり手なのかしら?
ルイ9世王女 アニェス・ド・フランス
ブルゴーニュ公ロベール2世妃

1260〜1327

ルイ9世とマルグリート・ド・プロヴァンスの五女アニェスは
本人にはこれといったエピソードがないんですけど、子供たちに注目!

11歳ぐらいでロベールと結婚しまして四男四女をもうけました。
          
その中で、次女マルグリートはフランス王ルイ10世に嫁ぎ
次女ジャンヌはフィリプ6世妃に。
次男ウードはフィリプ5世王女ジャンヌを妃に迎えています。
省いたけど長男ユーグは、フィリプ3世を祖父に持つ
カトリーヌ・ド・ヴァロワと結婚してます。

もう、フランス王位がどこに転んでも縁続き、という関係を築いてます。
フランス王家はブルゴーニュ公領をがっつり手中に収めたかったということもありますが
こんな豪華な顔ぶれ… 縁組み作戦成功だったと言えましょう。
ただ、結婚した本人たちがどうだったかは別ですけど…

中世の王侯家の縁談は、もちろん政策重視ですから
偉い人たちが「あーでもない、こーでもない」と話し合って決めることが多かったわけですが
けっこう母君たちも根回しなんかに暗躍してたのよね。

もしかしたらアニェスも、実家の効力を最大限に利用して縁談をまとめた
知られざるやり手ママかもしれませんね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ3世王女 ブランシュ

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美しすぎて英仏が戦争になっちゃった
フィリプ3世王女 ブランシュ・ド・フランス
ボヘミア王ルドルフ1世妃

1278〜1305/在位せず

去年の12月後半、パソコンの調子が悪くなったんですけど
バタバタしてて後回しにしてまして、やっと復活しました。

そんなわけで久々のアップです。
今年もよろしくお願いします。

今年が皆様にとりまして良い年となりますように。
遅ればせながら、新年のご挨拶とさせていただきます。

フィリプ3世と最初の妃イザベル・ダラゴンには王子ばかり4人が生まれました。
ブランシュと後のイングランド王妃マルグリート
二人目の妃マリー・ド・ブラバンの王女です。

     

ブランシュは4回婚約をしています。

まずは8歳の時に19歳のナミュール候子ジャン(1世)と婚約しました。
で、この婚約を破棄した気配は無いままに、翌年イングランド王太子エドワード(2世)と
婚約しました。

1287年に王妃エリナー・オブ・カステイルを亡くしたエドワード1世は
ブランシュの美しさを耳にすると「自分の奥さんにしちゃおうっと !」と考え
王子の婚約を取り消すと、ブランシュの義兄フィリプ4世に密使を送りました。

フィリプ4世もどうかと思うが… これを承諾。
もちろんイングランド VS フランスの停戦とガスコーニュの引き渡しという条件を
出してますけどね。

エドワード1世は喜び勇んで条件を受け入れると使者ランカスター伯をフランスに送ります。
これも婚約にカウントね。
ところが、ブランシュがすでにジャンと婚約していたことが発覚しました。
エドワード1世、怒るわね…
フィリプ4世はすぐに「妹のマルグリートはどうかしら?」と薦めてみましたが
エドワード1世は戦争を選びました。
結局5年後にマルグリートが嫁ぐことになりますが…

ブランシュとジャンの婚約も流れまして、14歳の時に4度目の婚約をすることになりました。
お相手はホラント伯子ヨハンでした。

で、最終的にハプスブルク家のルドルフと結婚しました。

27歳の時に男の子を死産して、その合併症で亡くなったと言われています。
ルドルフはその後ボヘミア&ポーランド王になりましたが、1年で亡くなっています。

その美しさが原因で戦いがおこるなんて、中世における “ トロイのヘレン ” みたい。
婚約以外にエピソードが無いのが寂しいですね。

それよりさぁ、エドワード1世…賢王のイメージ満載だったのに…
エリナー・オブ・カステイルの時は愛妻家としか思えなかったし
マルグリートの時には年の差婚を乗り越えた素敵な夫婦としてブログを書いたんですけど
こんな一面が隠されていたとは… ちょっとガッカリさ

(参考文献 Wikipedia英語版)

フランス王ルイ10世王女 ジャンヌ

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サリカ法でフランス女王にはなれず
ルイ10世王女 ジャンヌ・ド・ナヴァラ
ナヴァラ女王ファナ2世=ナヴァラ王フェリペ3世妃

1312〜1349/在位 1328〜1349

フィリプ3世を継いだフィリプ4世とジャンヌ・ド・ナヴァラには
7人のお子様が生まれていまして、王子たちは4人中3人までが王に即位しています。
皆さん短い間でしたけど…
四男ロベールも10歳そこそこで亡くならなければ、たぶん王になってたんじゃないかしら?

王女は3人で、長女マルグリートと次女ブランシュは幼くして亡くなっています。
三女は“ フランスの女豹 ” と呼ばれたイングランド王エドワード2世妃イザベルです。

さて、フィリプ4世の長男でルイ10世は2回結婚して、一男一女がおりました。

ジャンヌのお母様は、ルイ10世の最初の妃で、悲劇の王妃として語り継がれる
マルグリート・ド・ブルゴーニュです。
0歳で王になってすぐに亡くなったジャン1世のお母様は
二人目の王妃クレマンス・ダンジューです。
          
ルイ10世も、その後を継いだ弟のジャン1世も亡くなってしまうと
フランス王位はルイ10世の弟フィリプ5世が継承することになりました。

当時フランスはナヴァール(スペインの一部)の国王も兼ねてましておりました。

フランスには “ サリカ法 ” というものがあって女性は国王になれなかったのね。
でもナヴァールは女王OK!というわけで、ジャンヌには立派に継承権がありました。
が、この王位をフィリプ5世は阻止してます。

まずは「ジャンヌは若すぎる!」と訴えてみました。
ジャンヌはこの時4歳、確かに若いっすね… でもその前の王は0歳で即位してるんだしね…

次にサリカ法を持ち出してみたものの、ジャンヌの祖母にあたるジャンヌ・ド・ナヴァラは
問題なく女王に即位できたのですから、説得力はないですね。

しかしフィリプ5世は、なぜか最大の武器とも言える
「ジャンヌはマルグリートと浮気相手の庶子だ!」という発言は控えています。
なぜかっていうと、ブルゴーニュ公家を敵にまわしたくなかったからです。

ブルゴーニュ公ウード4世はマルグリートの弟で
いつまでも姉のスキャンダルが囁かれることに不快感を示していました。

結局、フィリプ5世&シャルル4世が嫡子無しで亡くなり
ヴァロア家のフィリプ6世が即位すると
「ナヴァール王家と関係ないじゃんか」ということになり、同君連合はなくなりました。

ジャンヌは16歳の時に、夫のフィリップ(フェリペ3世)とともに即位しました。
          
フェリペは何にあたるの? 叔父さんかしら? いとこかしら?
とにかく親戚ですね 6歳ぐらいで結婚していたようです。

フェリペ3世が亡くなるまでは二人で統治し、その後も亡くなるまで君臨しました。
夫婦仲のエピソードとかはないんですけど、7人のお子さんが生まれています。

次女ブランカはヴァロア家初の王フィリプ6世の二人目の妃になっています。
すっごい年上なの…
なんたって、兄カルロス2世の妃ジャンヌはフィリプ6世の孫にあたるんですもの…
          
ジャンヌはフランスの君主の座を逃しましたが
カペー家の血はフランス王家に連綿と続き、後のアンリ4世を誕生させています。

家系図を三つのせてみましたが、まさに政略結婚!! って感じですね!
スペースがないので割愛してますが、ブルゴーニュ公家をはじめとする
錚々たる家々が入り乱れてます。
歴史的には面倒くさいけど、家系図的には楽しい時代なんですよね〜

(参考文献 Wikipedia英語版)

『女生徒 他八篇』題名買いして良かったです

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L'ECOLIERE 
1905年 レオン・フラピエ

この作家は知らなかったのですが、太宰治の短篇集と同じ題名だったってことだけで
古本市で購入しました。

珍しく解説が無い本で、作家の背景はわかりませんけど
モーパッサンを読んで育ったでしょ? って感じでしょうか?
素朴な話のなかに笑いあり涙あり美しさあり… ちょっとしたドラマが潜んでします。
好きなラインですね〜

9篇の物語は、どれもが短いながらも程よく印象に残る話だったのですが
中でも特に気になったものをあげてみます。

『嫁選び』
遺産を受け継いだゴントランは結婚しようと考えます。
娘持ちのシャルルヴァン氏の邸宅に滞在し、美しい妹娘ジェルメーヌとの結婚を決めました。
しかし、次第に心優しい姉娘ルイーズに惹かれていきます。

心美しい姉(妹)と容姿端麗な妹(姉)との間で揺れ動いちゃう男性の話って
昔からけっこうあります(たいがいは心美しい方が身を引くんですよね)
そうじゃないと韓流的ドロドロになってしまふ… キライじゃないけど…
この物語も最初はそんな感じで展開するんですが、ラストで急展開! この後が知りたい!!

『女房』
中年のデュプールは役所で、女房の尻に敷かれていると有名で“坊や”と呼ばれていました。
同僚たちはそんなデュプールにハメを外させようと画策します。
まんまと酔ったデュプールを送っていったルフローは、意外な事実を知って心打たれました。

どんな奥さまが待っていたと思いますぅ?
ルフローならずとも、こんな女性が相手では言うことを聞かざるを得まいと納得です。
デュプール一家にさらなる幸あれ… なんて思えたラストでした。

『最後の光』
老いた夫婦がいます。
お爺さんはボケてしまい、お情けで工場で仕事をさせてもらっています。
夫婦の部屋からは次々と家財道具が持ち出されていきます。
とうとう夫婦の宝物だった鏡まで持ち出されることになり、お婆さんは涙に暮れます。

人生を終えようとする時に貧しさに喘いでいるという悲劇に加えて
お婆さんは長年連れ添ったお爺さんの悲しい現実を目の当りにしてしまうのね…
若い方にはわからないでしょうが、この年になるとけっこう身につまされる話なのです。
貯蓄・利回り・資産運用… なんて言葉がつい頭をよぎるわ… 元手が無いけど…

もちろん物語なので、素朴なばっかりでなく脚色や演出がされているのですけれど
良いさじ加減で容易く感情移入できます。
時代は違うけど、今でも充分共感できるお話しです。

大作は読んでいてとっても楽しいんだけど、やはり時代とか背景が大仰だから
「わかる、わかる!」とはいかないじゃないですか?

小品の楽しみとはこういうところにあるのかな? と再確認できる一冊でした。

とりあえず、太宰治の『女生徒』とはまったく違う話でした、とおことわりしておきます。
(当たり前です )

『小説のように』小説で良かった…というお話しの数々

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TOO MUCH HAPPINESS 
2009年 アリス・マンロー

『イラクサ』『林檎の樹の下で』に続くアリス・マンローの短篇集です。

前の2冊同様、なんとなく作者の過去とリンクしているような気がしないでもないですが
わざわざ『小説のように』と題しているだけあって、少し物語性が強い気はします。
あえていうなら陰鬱感とミステリアス感が微増してました。
まぁどっちでもいいですけどね… 読んでて楽しかったんですもの。

10篇の中から印象的だったお話しをあげてみます。

『小説のように(Fiction)』
ジョイスは、夫のジョンを大工見習いに来ていた子持ちのエディーにとられました。
数十年後、ジョイスと夫マットのホームパーティーに作家デビューしたという女性が来ます。
何気なく彼女の本を買ったジョイスは、彼女がエディーの娘だということに気づきました。

本題とあんまり関係ないけど、ジョイスもジョンもエディーもマットも
結婚・離婚の紆余曲折がすごくてビックリするわ。
とにかく、ジョンと別れた時のショックから立ち直れたジョイスに拍手。
できたら忘れた過去とは対面したくはないですね。

『遊離基(Free Radicals)』
夫のリッチが亡くなりニータ独りになった家に、ヒューズ点検の男がやってきます。
しかし家に入れると男が豹変し、朝食やワインを出せと言います。
食べ終わってお茶を飲むと、男は自分が犯して来た殺人の話を始めました。
そこでニータも自分の話を披露することにします。

何気なくドアを開けたことから味わう恐怖…怖いですね。
ニータの話は機転なんだろうか? それとも封印された事実なんだろうか?
読後ヒヤッとする話です。
なんとなく『リスタデール卿の謎』の中の『ナイチンゲール荘』を思い出してしまいました。

『女たち(Some Womans)』
13歳の夏休みに末期の患者の世話をする仕事をしました。
患者の妻の留守中、患者の母親のマッサージ師である女性が仲間入りするようになりました。
妻が仕事を辞める日、患者からあることを言いつけられ部屋の鍵を渡されました。

細かいことは書かないでおきますけど “ あること ” っていうのがね…
13歳の女の子には酷だと思ったしだいです。
きっと戸惑うでしょうし、逆に察しがいいのも困ったものですし…
大人の事情に子供を巻き込むなって言いたいわ。

小説ですから当然のことなんですけど、この短篇集の登場人物たちも
それぞれに事を起こしたり何ごとかに巻き込まれたりしています。
ただ、これといった動機や目的のようなものがはっきりしないまま物語が進んで
そのまま終了します。

でも日常で起きることなんて、けっこうそんなものよね?
他人はおろか、「なぜこんなことをしてしまったんでしょう?」と
自分でも訳がわからないまま行動してしまう時があります。

上手く言えないけど「私はどうして?」と思いつつ衝動に駆られる…みたいなところを
女性特有の洞察力と冷徹さで、絶妙に書き表しているような感じの一冊でした。

アリス・マンローは “ チェーホフの後継者 ” と言われているらしいです。
私には、ふたりの作品のどこらへんに共通点があるのか見出せていません。
もっと物語の本質的な部分が読めるようにならねば… なんちゃって
実はどうでもいいんですけどね 二人とも好きな作家でございますんで…

フランス王フィリプ5世王女 ジャンヌ

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父親のライバルの味方に嫁いだ王女
フィリプ5世王女 ジャンヌ3世・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ伯=ブルゴーニュ公ウード4世妃

1308〜1349

とはいえ、敵方に嫁いだ王女たちは少なくないんですけどね…

フィリプ5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュには7人のお子様が生まれましたが
成人まで成長したのは年長の3人の王女だけで、年少の4人は亡くなっています。
長男フィリプ、あるいは次男ルイが長生きしていたら
フランス王家の流れも変わっていたかもしれないですね。

ジャンヌは長女です。
10歳で23歳のブルゴーニュ公ウード4世に嫁ぎました。

        

当時ブルゴーニュ領は、フランスの王位継承を巡って二分されていました。
貴族の皆さん、それぞれにフランスの家々と姻戚を結んでいたから
有利な方に味方したでしょうね。
なんかすごく入り乱れてそう…

ウードは姪にあたるルイ10世王女ジャンヌを後押ししていました。
姉の娘ですからね… 摂政とか後見人とか、おいしい役どころがまわってきそうだもの。

ジャンヌはフィリプ5世の懐柔策で嫁がされちゃったのでしょうか?

ブルゴーニュ伯だった母ジャンヌ2世が1330年に亡くなったので
ジャンヌは3世として伯領を受け継ぎました。
ブルゴーニュ伯でブルゴーニュ公妃… ややこしいぞ…

ジャンヌは6人のお子さんを生んでいますが、5人は死産でした。
たったひとりの息子フィリプも両親に先立ち23歳で亡くなったので
ブルゴーニュ公領も伯領も孫のフィリプに渡りました。

息子のフィリプの未亡人ジャンヌ・ドーベルニュ
ヴァロワ家二代目のフランス王ジャン2世と再婚します。

孫のフィリプ1世も15歳で、嫡子無しで亡くなっちゃったもんで
ブルゴーニュ公の公領は、ジャン2世を経て王子フィリプに渡ります。
フィリプ2世ル・アルディ(豪胆公)として有名ですね。
これがヴァロワ=ブルゴーニュ家です。

ちなみにフィリプ2世のお母様はジャンヌ・ドーヴェルニュではなくて
先妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュです。

ジャンヌとフィリプがたくさんでてきてこんがらがりますね。
同じ名前が多すぎるよ〜  解りづらかったらごめんなさい…

(参考文献 堀越孝一氏『ブルゴーニュ家』 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ5世王女 マルグリート

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たいしたタンカをきったもんだ
フィリプ5世王女 マルグリート1世・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ伯=フランドル伯ルイ1世妃

1310〜1382

フィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュ次女マルグリートの
幼い頃のことはよくわかりませんが、10歳ぐらいで
6歳年上のルイ(ルートヴィヒ)と結婚しています。
この結婚のおかげで、マルグリートの叔父にあたるフィリプ6世の後押しを受け
ルイはフランドル伯になることができました。
          
当時フランドルは経済的にイングランドに依存していたのですが
ルイは一貫してフランス支持派でした。
フランスとイングランドは百年戦争の真っ最中、てなわけで
イングランドはフランドルとの羊毛貿易を取り止めました。

そんなこんなで、ルイは一時フランドルから追放されたりしてます。
フィリプ6世のおかげでまた戻れたんですけどね。

結婚から26年目にルイが有名なクレシーの戦いで戦死しました。

息子のルイ2世はフランドル伯になりましたが
15歳だったので、マルグリートはしばし摂政に就きました。

あのね…
マルグリートが持っているブルゴーニュ伯位、
ルイ2世の妻ジャンヌが持っているブラバント公位、
孫のマルグリート3世の夫が持っているブローニュとオーヴェルニュ伯位をめぐって
ゴタゴタがあるんだけど省いていいですかね… 中世にはありがちな継承争いってことで…
いろんな家系が複雑にからみあってるので大変よね
誰が把握してたんでしょう? 一家に一人、家系の専門家が雇われていたんでしょうか?

1361年、(孫の)マルグリートの夫ブルゴーニュ公フィリプ1世が亡くなります。
こちらのフィリプはカペー=ブルゴーニュ家ね。

1369年、マルグリートの後押しで(孫の)マルグリートは
ブルゴーニュ公フィリプ2世と再婚。
こちらはヴァロワ=ブルゴーニュ家です。

       

この時、息子のルイ2世は娘をイングランドに嫁がせるつもりでした。
マルグリートは息子の前でドレスを引き裂くと
「母の願いを果たさない息子なんて!
 お前に吸わせたこの胸を切り取って犬にでもくれてやりたい!!」と言ったそうな…

子供を人質にとった敵の前でドレスをまくり上げて
「子供なんかここからいくらでも産んでやらぁ!」とタンカをきった
カテリーナ・スフォルツァという女傑がおりますが、マルグリートも負けていませんね。
ルイはすごすごと引き下がったようです。

1382年にマルグリートは自分の領土で反乱にあいました。
こちらは息子ルイと孫の夫ブルゴーニュ公に鎮圧してもらったのですが
すぐにルイが追放されてしまいます。

親不孝ものよばわりしてしかりつけていても可愛い息子、
いくつになっても心配尽きない唯一の子、というわけで
心労のせいでしょうか、その年にマルグリートは亡くなりました。

派手なエピソードがありませんが、かなり政治的な人だったんじゃないでしょうか?
フランドル伯ルイ2世はその2年後に亡くなっています。
ずーっと厳しいお母様の監視下にあったんでしょうか?
けっこうキツい人生だったかもね…

(参考文献 永井路子氏『歴史をさわがせた女たち=外国篇=』 Wikipedia英語版)

フランス王フィリプ5世王女 イザベル

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             こちらはフィリプ6世王女ジャンヌ・ド・フランス

ここから3人の王女は、ほぼ家系図のみです…
フィリプ5世王女 イザベル・ド・フランス
アルボン伯ギーグ8世夫人/フォシニー領主ジャン3世夫人

1312〜1348

イザベルはフィリプ5世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュの三女です。
      
4歳の時に3歳年上のアルボン伯子ギーグと婚約し、11歳で結婚しました。
1333年、ギーグはペリエール城に籠城中殺害されてしまいました。

で、ギーグの家系では嫡子を “ ヴィエノワのドーファン ” と呼んでいたらしいのだが
領地をフィリプ6世に渡した際に、フランスの王太子の称号になったそうです。
ちなみにドーファンてイルカのことね …

経緯は違えど、イギリスの “ プリンス・オブ・ウェールズ ” みたいな感じですかね?

21歳で未亡人になってしまったイザベルは2年後に再婚しました。
フォシニーの領主って、たいした相手じゃなかったんでしょうか?
記録がありませんで、亡くなった年も36歳か37歳と曖昧です。

フィリプ5世の四女ブランシユはロンシャンで修道女になりました。
六女は死産、あるいは誕生後すぐ亡くなっています。



カペー家、あがく
シャルル4世王女 ブランシュ・ド・フランス
オルレアン公フィリプ妃

1328〜1382

シャルル4世は3回結婚しています。

最初の妃ブランシュ・ド・ブルゴーニュとの間には
長男フィリプと長女ジャンヌがおりましたが、二人とも幼年で亡くなりました。

二人目の妃マリー・ド・リュクサンブールは妊娠中に馬車に乗って揺られ
出産後に亡くなり、次女ルイーズも数日後に亡くなりました。

三人目の妃ジャンヌ・デヴルーが生んだ三女ジャンヌは1歳で夭逝。
シャルル4世のお子様たちの中で唯一成人に達したのが四女ブランシュです。
        
16歳か17歳でオルレアン公フィリプと結婚しました。

カペー家本流には嫡子が無く、王権はヴァロワ家に移っちゃう、ってわけで
娘を嫁がせてみたのでしょうか?

しかしお子様は生まれず… シャルル4世の血はここで終わっちゃいます。

1382年に亡くなって、両親も眠るサン=ドニ大聖堂に葬られました。



幸薄そうなイメージしかないんだけど…
フィリプ6世王女 ジャンヌ・ド・フランス

1351〜1371

ヴァロワ家の初代王フィリプ6世は2回結婚しました。
最初の妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュには八男二女が生まれたものの
次男ジャン(後の2世)と七男(後のオルレアン公)フィリプ以外は
幼くして亡くなっています。
長女マリーは7歳でブラバント公ジャンと結婚しましたがすぐに亡くなりました。
次女ジャンヌは死産、あるいはすぐに亡くなっています。

三女ジャンヌ、は二人目の妃ジャンヌ・ド・ナヴァラが
フィリプ6世の死後生んだ王女でした。
        
19歳の時にアラゴン王子ファン(後の1世)と婚約してフランスを発ちましたが
アラゴンの地を見ることはできませんでした。
ファンとも会うことなく、ベジエで亡くなりサン=ドニ大聖堂に葬られました。

結婚するために旅立って到着前に亡くなる王女って多くない?
そんなにハードな行程だったのでしょうか?
もともと病弱? だったら長旅させちゃだめじゃないの !!
まだまだお母さんが恋しい年ごろで嫁に行くだけでも不安なんですから
万全を期してほしかったものですねっ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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