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Channel: まりっぺのお気楽読書
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ポーランド王アウグスト2世妃 クリスティーナ

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Exile バンザイ!な王妃
アウグスト2世妃 クリスティーナ・エベランディーナ・ホーエンツォレヴナ

1671~1727/在位 1697~1706、1709~1727

ヤン3世ソビエスキが推した王子ヤクブ・ルドヴィクと、王妃マリア・カジミュラが推した
娘婿バイエルン選帝侯マクシミリアン2世を破って王になったアウグスト2世。

私はこの人がなぜ選ばれたかとか政治的な功績はどうでもよくて、女好きに注目!
なにしろ庶子が350人以上いたっていうんだから、いったい何人の愛妾がいたんだろうか?

以前有名どころのマリア・アウローラファティマウルスラ・カタリーナ
アンナ・コンスタンシアは取り上げてみましたが
一夜限りから深いお付き合いまで、ウジャウジャいたはず…

そんな王様の妃はいったいどんな方なんでしょうね?

アウグスト2世の妃クリスティーナは
ブランデンブルク-バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘さんです。
母親はゾフィー・ルイーゼ・ビュルテンブルク、どちらも名家ですね。
        
そんな名家出身の両親は、ものすごく贅沢に暮らしていたそうです。
おかげで領地の財政はアップアップ状態でした。

クリスティーナは、22歳の時にザクセン公フリードリヒ・アウグストと結婚しました。
嫁ぎ先もヴェッティン家で、良いお家柄だと思うのですが
贅沢な実家が忘れ難かったのか、頻繁に里帰りしています。
ドイツ国内ですからね、 外国に嫁いだ妃よりは里帰りがしやすかったと思いますが…

もともと政略結婚で愛が無いのはわかりますが、さらにアウグストの浮気三昧で
この結婚はものすごく不幸なものでした。

結婚から4年後のアウグストがポーランド王に選出されます。
この時アウグストはカトリックに改宗しましたが、クリスティーナは拒否したので
王妃としての戴冠はしていません。
アウグストはプロテスタントでもいいからさ、とクリスティーナをポーランドに呼びますが
クリスティーナはなかなか聞き入れませんでした。

アウグストの女好きは、夫婦の不仲の大きな原因かもしれませんが
クリスティーナもけっこう頑な性格だったみたいですね。

アウグストがポーランド王になってからは完全に別居状態になります。
王になったアウグストはポーランドとザクセンを行ったり来たり。
一方クリスティーナは、冬はのトルガウ、夏はプレッチェの自分のお城で暮らしてました。
どちらもザクセンですが、アウグストがポーランドからザクセンに帰ってきて
公的な場に出る時、たま~に顔を出すぐらいで、夫とはほとんど顔を合わせませんでした。

夫どころか、クリスティーナは宮廷にも社交的な行事にもほとんど顔を出さず
ドレスデンのお祭りでだけ姿を見ることができたそうです。

どうやら “ 宮廷からの追放生活 ” というのを楽しんでいたみたい。
隠居状態というか、自ら軟禁生活を送っているような感じでした。
そうは言っても、芸術が大好きで、身寄りのない子供たちの援助をするなど
王妃らしい一面もありました。

結婚から3年後に息子のフリードリヒ・アウグストが生まれますが、息子を育てたのは
義母にあたるアンナ・ゾフィア・オルデンブルク(デンマーク王フレデリク3世王女)でした。
これは、よくある義母が意地悪で子供を取り上げるというのとは違ったみたいです。
アンナ・ゾフィーとクリスティーナは仲良くやっていたみたいで
クリスティーナはちょくちょく息子の元へ訪れたそうです。 同居ではないのね…

たぶん父親は争いと女性に明け暮れて家におらず、母親も引きこもり…ってことで
祖母が「こりゃいかん!」と引き受けたんでしょうね。

半分ぐらいは自業自得とはいえ、寂しい人生を送ったクリスティーナは
55歳で亡くなります。
夫のアウグスト2世ばかりか、一人息子のフリードリヒ・アウグストも
葬儀に参列しませんでした。

ヨハン・セバスチャン・バッハが、クリスティーナの死を受けて
カンタータ Lab, Furstin, lab noch einen Strahl, BWV 198, を作曲したということで
ちょっとした救いになりますね。

自分の世界の中だけで生きていくのって、幸福な人生のように思えなくもないが
敵はつくるかもしれないし、世間に忘れられるかもしれないし、いざという時頼れないし
なかなか勇気のいる生き方かもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
2PMのテギョンと少女時代のサニーとヒョヨンが一緒に訪れた小さい居酒屋ってどこなんでしょーねー?
飲んでてひょっこりKポスターが入って来たらあたふたしてお皿とかグラスとか割っちゃいそう…  

ポーランド王スタニスワフ1世妃 カタジーナ

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ルイ15世が娘婿で良かった?
スタニスワフ1世妃 カタジーナ・オペリニャシスカ

1680~1747/在位 1705~1708、1733~1736

アウグスト2世が廃位された間に一瞬王座につき
復位したアウグスト2世の死後再度一瞬王になったスタニスワフ1世の妃は
ポーランドの高官ヤン・カロル・オペリンスキの娘カタジーナです。
          
カタジーナが18歳の時に、21歳のスタニスワフと結婚しました。

結婚から6年後にスタニスワフがポーランド王になりますが
これはスウェーデン王カール12世のおかげでした。
カール12世は自分の思い通りに動く王を求めていたんだと思われます。

4年で退位させられた後は、ポーランドを逃れツヴァイブリュッケンで暮らしていましたが
1725年に次女のマリアがフランス王ルイ15世に嫁ぎます。
その後はフランスで王様の義父として暮らしていました。
このまま安穏と余生が送れればよかったのですが…

アウグスト2世が亡くなると、今度は娘婿ルイ15世の野望のせいでポーランド王になります。
しかしポーランドにはアウグスト2世の王子アウグスト(3世)を支持する貴族が多く
結局は3年でフランスへ逃げ帰ることになりました。

その後はルイ15世にロレーヌ公領を与えられ、そこで余生を送りました。

どうなんでしょうね?
他国の王様にいいように使われちゃってる夫を見ている心境というのは…

カタジーナのパーソナリティはさっぱりわからないのですが
王様たちと一緒になって「王になっちゃいなさいよ!」とけしかけていたのか
「もうおやめになったら…」と止めていたのか、知りたいところですね。
肖像画からは「おやめになって」の印象を受けますがいかがでしょう?

1747年にカタジーナが亡くなると、ルイ15世はノートルダムで盛大な追悼式典を催します。
この当時、ルイ15世はポンパドゥール夫人を愛妾にして2年目ぐらいで
王妃そっちのけ時代だったと思われます。
悪評を一掃するためだったのか、王妃への贖罪のつもりだったのか
カタジーナのことを “ 元ポーランド王妃 ” としてかなり持ち上げた式典だったようです。

前王妃クリスティーナのような寂しいお葬式よりはよいのかもしれないが… どうなんだろ?

ここで終わろうかと思ったのですが、ポーランド王妃シリーズはあと二人で終わるんで
サクサクと終わらせちゃうね。

次の王は、アウグスト2世の王子アウグスト3世です。
王妃はハプスブルク家のマリア・ヨーゼファです。


               
愛妾とよばれ続けた王妃
スタニスワフ2世妃 エルジェピタ・グラボヴスカ

1749~1810/在位せず

さー! 最後の王妃ですよ!! みなさん
長かった~…って、怠け者(私だ)がたまにしかアップしないからなんですけどね…

この方の素性はよくわかりません。
最初にヤン・イェルジー・グラボヴスキという貴族と結婚したらしいのですが
1789年に死別し、その後こっそりスタニスワフと再婚しました。
      
なんでもグラボブスキとの間に生まれていた4人の子供たちも
スタニスワフの子供だと宮廷中の噂になっていたらしいです。

スタニスワフの子供を生んでいる女性は他にもいましたが、結婚はしていません。

エルジェピタは王妃のタイトルはなく、愛妾としての扱いを受けていましたが
スタニスワフに対してすごく影響力があって、それも不人気の原因になっていました。

1796年、スタニスワフは廃位され、ポーランドは、ドイツ・オーストリア・ロシアに
三分割されてしまいます。

その後スタニスワフは、サンクトペテルブルクで年金をもらいながら暮らしたのですが
エルジェピタは夫について行き、最後まで連れ添ったそうです。
不倫 → 結婚パターンですが、政略結婚と違って本当に愛し合っていたのかもしれないね。

スタニスワフの死後はポーランドに戻って、活人画というパフォーマンスみたいな芸術の
パトロンなどしながら過ごし、スタニスワフの死から4年後の1810年に亡くなりました。

ちなみに、スタニスワフにはエカチェリーナ2世の愛人説があります。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと予告コーナー
やっとポーランドが終わりました~! 次はどこにしようかなと考え中です
候補は三つあるのですが、どれもぜんぜん準備してない状態… 次にお目にかかるのはいつになるんでしょうか

『ボートの三人男』ダルッダルの川上り

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THREE MEN IN A BOAT 
1889年 ジェローム・クラプカ・ジェローム

やーっとポーランド王妃シリーズが終わったので、久々に感想文です。

この『ボートの三人男』は、面白くないわけではないのですが
もしも私がイギリス人、もしくはイギリスで暮らしていたらもっと面白かっただろうし
19世紀に生きていたらさらに面白く読めたはず。

“ ぼく ” という語り手と、ジョージとハリスという友人が、どうも体調が優れないので
休息が必要だという結論に至ります。
そこでいろいろ検討した結果、テムズ川で2週間の休暇を過ごそうということになります。

物語の大筋は、行程や持ち物や食事の計画を立て準備をして、いざ出発。
ボートをこぎながらオクスフォードへ向かい、ロンドンへ戻って来るまで。
以上です。

川岸にある歴史的な土地の名前とエピソードが英国感を煽ります。
当時在位中のヴィクトリア女王のことから、遡ってエリザベス1世やチャールズ1世、
チャールズ2世、ジェイムズ2世のエピソードや、もっともっと遡ってウィリアム1世や
サクソン王にまつわる土地の話しなどもちりばめられていますし
町の名所や見どころも紹介されています。

しかし、これがボートでテムズ川を下ろう(上ろう)としている人々の
良いガイドブックになり得たかというと、そうでもなさそうです。

三人の男性が、皆自分が他の二人より勝っていると思っていることと
できるだけ他の二人より楽をしようとする姿勢が、この旅をおもしろ可笑しくしています。

それから、かなり多くちりばめられている、語り手、ジョージとハリス、その他知人の
失敗談やおもしろエピソードが、しばしば「川の話しだった」ってことを忘れさせます。

ただ、19世紀には、そこそこお金を持っている家庭の少年たちは
ボートを習うのが当たり前だったんだな… ということはわかりました。

それから、やはり都市は川の側から出来て、川の側で繁栄してきたんだなぁ… と
再認識しました。 思い出すわぁ… チグリス・ユーフラテス川

ロンドンから地方の都市へ列車で移動していると、テムズ川の支流というのが現れて
なんの変哲もないものから屋根がついた可愛らしいものまで、ボートが浮いていた光景を
思い出しました。 ただそれがどこだかは知らないのだが…
現代でもイギリスの方々にとって、テムズ川は特別な川なのでしょうね?

ラストは、この三人ならではの終わり方、って感じです。
お気楽… たぶん、いいとこのお子さんだったんでしょうね。

ひとことラグビーコーナー
私はたいがいのメジャースポーツは(テレビで)観戦&応援した経験があるのですが、アメフトとラグビーは
無かったのねぇ… だけどさすがに今回のラグビーは応援したんだけど… ボーナスポイントってなんなのよぉ!

スコットランド王マルカム3世王女 メアリー

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          肖像画が無いので母のマーガレット・オブ・ウェセックス像

まわりマティルダばっかり…
マルカム3世王女 メアリー・オブ・スコットランド
ブーローニュ伯ユースタス3世妃

1082~1116

家系図シリーズは初心にもどって英国方面でいこう! と思います。 というのは少し嘘…
ポーランド王妃編が終了し、どこにしましょう? と迷っていましたが
なんの準備もしていなかったので、一番人数が少ないところを選んでしまいました。

こちらも王妃同様女性陣がなかなか登場しませんので
マルカム3世の王女からからスタートしようと思います。

ちなみに、その前に顔を出す王女は、ケニス3世王女ベレデ(マクベス妃グロッホの母)と
マルカム2世王女ベソックとドナウダです。
ベソックの結婚がダンケルド(アサル)家に王座をもたらします。
          

マルカム3世には六男二女のお子様がいましたが、王子のうち4人が王になってます。
すごく熾烈な王位継承争いがあったと予想されますね。
王女は二人とも、二人目の妃聖マーガレットとの間に生まれています。

長女マティルダ(スコットランド名エディス)は、イングランド王ヘンリー1世妃になります。
次女メアリーが今回の主役。

        

メアリーは4歳の時、信心深い両親によって、姉のエディスと共に
母方の伯母が修道院長をしているロムジーの修道院に入れられました。
11細の時に、教育の仕上げをするためウィルトン修道院に移ります。

エディスとメアリーはものすごく敬虔な少女時代を送っていたため
二人とも修道女になるつもりでした。

しかし、まず姉のエディスがヘンリー1世と結婚します。
エディスは結婚生活が幸せだったのか、メアリーが14歳で修道院を出ると
「あなたも結婚しなさいよぉ」と言ったかどうかは知らないですけど
妹も結婚するよう望みました。

そこで、「よしよし、まかせとけ」と言ったかどうかは知りませんが
ヘンリー1世がブーローニュ伯ユースタスとの結婚をアレンジしました。

どんな夫婦だったのかはわかりませんが、結婚生活は20年におよびました。
だけど、子供は娘のマティルダだけでした。
娘のマティルダはブロワ家のエティエンヌと結婚します。
彼が後にイングランド王スティーブンとして即位するのですが
その際マティルダは、神聖ローマ皇后妃マティルダと熾烈な争いを繰り広げます。

皇后マティルダは、メアリーの姉エディス(ヘンリ-1世妃マティルダ)の娘なので
メアリーの姪にあたります。
二人のマティルダは従姉妹同士で争ったことになりますね。

勝手な想像ですが、エディスとメアリーは一緒に親元を離れて修道院で育ったから
姉妹仲は良かったんじゃないかと思うのよね。
なのに娘たちが権力の座をめぐって、国を巻き込む大喧嘩をするとは…

ただ、エディスとメアリーはその大喧嘩の前に亡くなってますので
娘たちの諍いを見ずにすんでよかったですね。
天国で「困った娘たちだわねぇ、メアリー」「そうね、お姉様」なんて
語り合っていたかもしれないです。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
なんだかKポ界に続々日本人がデビューしてますけど、言葉とか習慣とかの違いも乗り越えて、キツい練習にも耐えて
えらいよねぇ、遊びたい年ごろだろうに… デビューしたからには末永く頑張ってほしいですね

スコットランド王ウィリアム1世王女 マーガレット

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            肖像画がないので、中世のスコットランド貴婦人の図を…

完全に戦利品として嫁がされた三姉妹
ウィリアム1世王女 マーガレット・オブ・スコットランド
ケント伯ヒューバート・ドゥ・バラ夫人

1193~1259

マルカム3世王女メアリーから、時代が飛びますよ。

マルカム3世の次に即位したドナルド3世は、母親はだれかわかりませんが
ベソックという王女がいたもようです。
次のダンカン2世とエセルリーダには王子しかいなかったもよう。
エドガーは未婚、アレグザンダー1世は嫡子無しです。
続くデイヴィッド1世には、セシリアとホディエルナ(?)という王女がいましたが未婚。
そしてマルカム4世は未婚。

ふぅぅ、やっとウィリアム1世までやってまいりました。

ウィリアム1世とアーマンガード・オブ・ボーモントには一男三女のお子様がいます。

長女マーガレットは、28歳でケント伯ヒューバート・ドゥ・バラと結婚します。
28歳、当時としては晩婚ですし、相手はすでに4回結婚していました。

      

ウィリアム1世は、まずイングランドのヘンリ-2世と、続いてジョン王と戦っていました。
しかし結局敗れまして、王妃と次女は人質にとられてしまいました。
そして、人質解放の際、ウィリアム1世の3人の王女は、すべてイングランド貴族と
結婚するように!という条件も入っていました。
相手もイングランドから指定されました。
きっと交渉中は結婚できなかったのだと思います。

ケント伯は、当時イングランド宮廷でかなりの権力者だったようですが
マーガレットがどれくらいエラそうに振る舞えたかどうかは不明。
1259年に亡くなりました。



人質だったけど、ジョン王はやさしかったらしい…
ウィリアム1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ノーフォーク伯ロジャー・ル・バイゴッド夫人

1195~没年不詳

父王ウィリアム1世は、1209年に、王妃アーマンガードと次女イザベラを人質として
イングランドに来させるようにと命じられました。

二人はイングランドに到着すると、自分の領土の権利を主張していた
エリナー・オブ・ブリタニーと共にコルフェ城に投獄されました。

でもジョン王は3人の淑女を酷い目には合わせていなかったみたい…
ローブとか時計とか、スリッパなんかを送っていたらしいです。
また、護衛付きでしたが遠乗りなんかも許されていたそうです。
ジョン王はけっこう評判が悪かったりするのですが、これはかなりポイント高いですね。

釈放されると、イザベラは条件によって14歳年下のノーフォーク伯ロジャー・バイゴッドと
結婚しました。 この結婚は不幸なものだったみたいです。
ロジャーは、王侯貴族お得意の「血族関係だから」を理由にイザベラを拒んだりした様子。
14歳年下かぁ… 二人には子供はいませんでした。

ロジャーは一応結婚を継続していたみたいですが、それは形式的なものだったみたい。
イザベラは1263年にはグローチェスターで暮らしていたんではないかと思われています。
グローチェスターはノーフォークからは離れているのよね。
没年はわかりません。

なお、三女マージョリー(1200~1244)は、同じ条件によって
ペンブローク伯ギルバート・マーシャに、後妻として嫁いでいます。

弟のアレグザンダー2世は、ジョン王の王女ジョアンと結婚しています。

戦争に負けるって、下々の人たちも大変ですが、王侯貴族にとっても辛いことよね。
特に敵方に嫁がされちゃう女性陣にしてみたら、本当にいい迷惑。
やらなきゃいいのにね…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
明日人生で2回目のファンミに行ってまいります。
そんなわけで、『Sing Your Song』を猛勉強中

スコットランド王アレグザンダー3世王女 マーガレット

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         肖像画が無いのでお嬢様のマーガレット・メイド・オブ・ノルウェイを…

悲劇の女王の母
アレグザンダー3世王女マーガレット・オブ・スコットランド
ノルウェー王エーリック2世妃

1261~1283/在位 1281~1283

ウィリアム1世の後を継いだアレグザンダー2世には、庶子では一人、娘さんがいたようですが
王妃ジョアン・オブ・イングランドとマリー・ド・クーシーとの間には
王太子アレグザンダー(3世)以外に子供はいませんでした。

アレグザンダー3世は、スコットランドに一時的に復興をもたらした賢王です。
王妃マーガレット・オブ・イングランドには、王女マーガレットと
王太子アレグザンダーの一男一女が生まれています。
         
マーガレットは20歳の時に、13歳のノルウェー王エーリック2世に嫁ぎました。
これはアレグザンダー3世が、長年に渡るノルウェーとの抗争を終わらせて結んだ
平和条約の一環で、完全に政略結婚でした。

条件には、ノルウェー領だったヘブリディーズ諸島とマン島の、スコットランドへの譲渡
ノルウェーによる、シェトランド諸島及びオークニー諸島の支配の容認などがありましたが
エーリック2世とマーガレットの子供のスコットランド王位継承も含まれていました。

マーガレットは2年後に初めての出産で王女マーガレットを生みましたが
その後しばらくして亡くなりました。

その翌年に王太子アレグザンダーが嫡子の無いまま亡くなり
アレグザンダー3世も二人目の妃ヨランド・オブ・ドウリュウとの間に嫡子無しで
亡くなったため、マーガレットの娘マーガレットが、スコットランド女王として
即位することになりました。

マーガレットも22歳という若さで亡くなってしまいましたが
その娘マーガレットはさらに儚い人生でした。

本当に王様の娘として生まれることが幸せだったのでしょうか?
この母娘のエピソードだけ見ても、お姫様がハッピーな立場ではないような気がしてきます。
魔法にかけられるだけの白雪姫とか眠り姫が幸せ者に思えるよ…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
昨日は楽しかったですよぉ。 ファンミならではしっとり系Boys Meet Uなんかも聞けちゃって幸せ!
でもって、今日はこれからさいたまスーパーアリーナに行ってまいります。 うふふ 

『パールストリートのクレイジー女たち』感謝状がわりの作品…だと思う

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THE CRAZYLADIES OF PEARL STREET 
2005年 トレヴェニアン

私はトレヴェニアンの本を読んだことも、原作の映画を観たこともないのですが
ストリートっていうか、横町を舞台にした話しが好きなので
本屋さんで出だしを読んで、即購入してしまいました。
晩年の作品らしいです。

面白かったです。

前書きと後書きが無く、プロフィールもほとんど載っていないので
この物語が実話なのかどうかわかりませんが
著者の生い立ちなどを調べるのは、今回もやめときます。

ただ、最初のページに著者から
“ -前略- 訴訟好きの衝動を阻みたい、という私の抑えがたい願望により、
 すべての登場人物と名前は私の想像の産物であり、私の頭のなか以外には
 存在しないことをここに名言する ” という一文があって
勝手に自伝的作品なんじゃないかと思い込んでいます。

ジャン=リュック・ラポアントは、6歳の時、なんの音沙汰も無かった父親の手紙で
27歳の母と、3歳の妹アン=マリーとニューヨークのノースパールストリートに
引っ越して来ますが、とうの父親はパーティーの準備だけして姿を消していました。
ノースパールストリートは、失業者や保護をもらって暮らしている人々が住む通りです。

長い上に、いろいろなエピソードが入り交じっているので、あらすじは書きませんが
ざっくりいうと、そんな中に残された一家が9年後に通りを出て行くまでの日々を
第二次世界大戦をからめながら、主人公の少年目線で綴った物語です。

だけど、貧しい中で頑張った少年や若い母親の奮闘記みたいに考えるのは間違い。

たしかに、少年は6歳の頃から一家を少しでも助けるために、働く働く!
学校に行く前に働き、休みの日に働き、たまには夜も働く、という働きぶり。

若い母親は、貧しい中でも子供たちにはなるべくちゃんとしたものを食べさせ
からだが弱いのにウェイトレスの仕事をしながら、家事も手を抜かず家を磨きあげます。
休みの日にはお金をかけずに子供たちを楽しませようと努力を払ってくれます。 だけど…

ノースパールストリートには、少なくとも三人は、正常とは思えない女性がいます。
そして他にも二人ほど、ちょっと軌道を逸している女性が登場します。
そんな中にいて、母親は “ クレイジー女 ” のレッテルを貼られてしまうのね。

それは母親が、本来はこんな通りに住むべき人間ではないというプライドと
なるべく人を頼らずに、人に蔑まれないように生きようとするスタンスを
正直に見せすぎていたためだと思われます。
無垢で自分本位な、子供っぽさを捨てずに大人になってしまった人みたい。

4歳の時から心身ともに、そんな母親の片腕になってしまった少年は
いつか母親から逃げ出したい、役目を投げだしたいという気持ちが捨てられずにいます。

出会いがあったり、世界大戦が終わったりという段階を経て
念願だった「ノースパールストリートから抜け出す!!」という夢は叶うのですけれども
それがハッピーエンドにはならなそうな予感は、後半から色濃く紙面を覆っています。
ラストはもちろん書きませんけどね。

主人公一家以外の登場人物のキャラクターも背景もわかりやすくて
すごく感情移入しやすい作品でした。
エピソードのひとつひとつも読み応えがあって、楽しく読み通せました。
日本人としては、第二次世界大戦のとこはちょっとつらかったけど、それは仕方ないっすね。

様々なエピソードの中には、母親を褒め讃えているように思えるものもあり
母親さえこうでなかったら… と祈るようなものもありで、良いところも悪いところも
曝け出されちゃってますが、やっぱり、愛と感謝を込めて書かれているものだと思います。

もし、自伝的小説でないのなら、すっかりだまされちゃってる私… ってことになりますね。

ひとことK-POPコーナー

ハロウィンの日のお昼、ケンタッキーとマックで悩んだんだけど
すごくお腹がすいていたのでマックのエグチのセットを食べました

スコットランド王ロバート1世王女 マージョリー

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            肖像画が無いので中世のスコットランド貴婦人を再び…

王女にさえならなければ… 可哀想すぎる人生
ロバート1世王女 マージョリー・ブルース

1296~1316

女王マーガレットが戴冠どころか上陸もしないで亡くなったため
スコットランド国内は混乱に陥ります。
ここからの王位継承にはイングランドがいろいろ横槍をいれてきます。

まずエドワード1世の傀儡王ジョン・ベイリャルが即位します。
ジョンと妃イザベル・ドゥ・ワーレンの間には二男二女がいます。
アグネス or モード or アンという名の長女はフィッツアラン卿ブライアン夫人になり
次女マーガレットは未婚でした。
一瞬名ばかりのスコットランド王になったエドワード・ベイリャルは
たぶん結婚していたと思うんだけどお子様の名が見あたらず…

次にブルース家のロバート1世が即位して、空位時代に幕を引きます。

測位に先だつこと10年前、ラブラブだった妃のイザベル・マー
マージョリーを生むと、すぐ亡くなりました。
        
マージョリーが6歳の時に、父ロバートがエリザベス・ドゥ・バラと再婚し
10歳の時に王になります。 マージョリーは王女になります。

しかし、戴冠からわずか3ヶ月後にメスヴァンの戦いでイングランドに敗れてしまいます。
ロバート1世は、王女マージョリーと妃エリザベス、彼の二人の姉妹を北へ逃がしますが
四人は結局捕まってしまいイングランドへ引き渡されました。

ジョン王は人質イザベラを手荒には扱っていなかったようですが
エドワード1世はまったく違う扱いをします。
人質の女性たちは、それぞれ別の場所に入れられました。

どうやらエドワード1世は妃のエリザベスの実家を見方につけたかったようで
エリザベスはヨークシャーの荘園に送られました。
可哀想なのはロバートの姉妹と、援護者のバカン伯夫人で、各々夫が処刑されたり
送られた城で檻に入れられ人目に晒されたりしました。

マージョリーは、本当はロンドン塔に入れられることになっていたのですが
エドワード1世の意向で、ノーフォークのワットン修道院に入れられました。

エドワード1世妃マーガレットは王をとりなすのが上手だったそうだけど
この件はなんとかしてあげられなかったのかしらね?

メスヴァンから1年ぐらい後に、ロバート1世はイングランドに大勝してるんですけど
人質解放はできなかったみたいです。
エドワード1世を継いだエドワード2世も5人を解放せず
マージョリーは修道院に入ったままで7年が過ぎてしまいました。

1314年、バノックバーンの戦いで捕らえられたイングランド貴族たちと交換する形で
やっとマージョリーは解放されます、が、戦いで功績をあげた
6代目ハイ・スチュワードのウォルター・スチュワートにご褒美として嫁がされます。
やっと自由になったのに~! ご褒美とは!!
ただ歳は近いみたいなので、戦いで名を上げた英雄と恋に落ちたと考えたいですね。

結婚から2年後、マージョリーは妊娠中だったのですが、乗馬をしていて落馬しました。
マージョリーは産気づいて近くのペイズリー修道院に運ばれ、苦痛の中出産しますが
数時間後に亡くなりました。 母親同様19歳で亡くなっています。

前々から思っていたんだが、妊娠中って乗馬OKなの?
乗馬してて流産したり死産だったりする王侯貴婦人がわりといるんすけど
けっこうお腹に響きそうだし、落ちたら大変じゃない?

マージョリーが生んだ息子は生き延び、嫡子がいないデイヴィッド2世を継いで
ロバート2世になり、スチュワート王家がスタートします。
せめて子供だけでも助かってよかったですね。

19年の短すぎる人生の中で、幸せだったのは何年ぐらいだったんだろうね?
もともと王家じゃなかったのに、わざわざ王様になったりするから…
娘も嫁も姉妹もいい迷惑… じゃない?

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
観月ありさの結婚式にはなんの興味もなかったわけだが、BIGBANGがかけつけたって!? なぜか? 
全員? スンリだけ? キャサリン3世からの縁ですか? お祝いに歌とか歌っちゃった? いきなり興味しんしん

スコットランド王ジェイムズ1世王女 イザベラ

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実家に寄りつかなかった王妃
ジェイムズ1世王女 イザベラ・オブ・スコットランド
ブルターニュ公フランソワ1世夫人

1426~1494

ロバート1世王女マージョリーの後は、名前と嫁ぎ先はわかるのですが
特にエピソードがないので箇条書きでだだっと紹介します。
嫁ぎ先はほとんどが国内の有力貴族なので省略します。

ロバート1世と二人目の妃エリザベス・ドゥ・バラには二男二女のお子がいました。
長女はマーガレット、次女マティルダ、二人は1515年~1518年の間に生まれています。
エリザベスがイングランドから解放された後ということになりますね。

デイヴィッド2世とジョアン・オブ・イングランド、それからマーガレット・ドゥラモンドには
嫡子がありませんでした。

ロバート2世とエリザベス・ミュアには、マーガレット、マージョリー、ジョアンナ、イザベラ
キャサリン、エリザベスという王女がいました。
二人目の妃ユーフィミア・ドゥ・ロスには、エリザベスとエギディアの二人。

ロバート3世とアナベラ・ドゥラモンドには、マーガレット、メアリー、エリザベス
エギディアの4人。

なお、列記した王女たちの何人かがダグラス姓の貴族と結婚しています。
ダグラス家の家系図は、もしかするとスコットランド王家より面白いかもしれません。
でも女性陣のエピソードが少ないのよね。 機会があったらいつか…

やっとジェイムズ1世です。

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートには、二男六女のお子がいました。
長女マーガレットは、フランス王ルイ11世妃になります。

さぁ、次女イザベラですよぉ。
       
イザベラはマーガレットより美しかったと言われています。

ブルターニュ公ジャン6世は、イザベラを息子の嫁にしましょう…と考え
外交官たちにイザベラのポートレイトを送らせました。
彼らは帰国すると、確かにイザベラは噂どおり美しくて優雅だが
ちょっと “ おバカさん ” かもしれない…と報告したそうです。

ブルターニュ公は「よっしゃ!」って感じで、すぐイザベラを連れて来いと命じました。
「イザベラ以外に考えられない、賢い女よりよっぽどいい」って言ったそうです。

フランソワとイザベラの祝宴は8日間も続いたそうですよ!
よっぽど嬉しかったらしいですね。

おバカさんよばわりされたイザベラですが、詩の才能はあって
これは父親ゆずりだそうです。
姉のマーガレットの死に際して書いたイザベラの詩は、今でも残っているそうです。

1450年、夫フランソワの死をうけて、イザベラの弟のスコットランド王ジェイムズ2世は
しつこくイザベラにスコットランドへ戻って来るよう説得します。
イザベラはまだ24歳、政治的に利用しようと思ってたに違いないですよね。

でもイザベラは、帰国を断固拒否します。
ブルターニュの方がスコットランドより楽しく、人気もあったみたいです。

また、ジェイムズ2世が約束の持参金を払ってくれないとグチをこぼしていたそうで
その仕返しもあったかもしれませんね。

1494年に68歳で亡くなりますが、イザベラは40年ぐらい「私は病気なの!」と
おおげさに言い張っていました。
小説とかでよく、病気を盾にワガママを通そうとする女性が登場するんですけど
そんな感じですかね?

なんだか姉とは正反対ですね。
イザベラがフランス王妃になれば良かったのかもしれないね。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
わたくし、メンバーの名前をやっと覚えたばかりで、タイトル曲しか知らず、もちろんコールも知らないのですが
明日東京ドームにEXO観に行って来ます。 でもSMTOWNで楽しかったから、きっと楽しいと思ふの…

スコットランド王ジェイムズ1世王女 ジョアン

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身振り手振りで会話した王女
ジェイムズ1世王女 ジョアン・スチュワート
初代モートン伯ジェイムズ・ダグラス夫人

1428~1486

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートの三女ジョアンは、生まれつき耳が聞こえず
“ 沈黙の貴婦人 ” として知られていました。


ジョアンは、17歳までスコットランドで教育を受けていましたが
当時は聾唖者に対するちゃんとした教育がありませんでしたので
手話というより、身振り手振りという受け取られ方をしていたと思いますし
いつも接している一部の人にしか解らなかったかもしれません。
また、公の場でそのように会話することは、無礼なことだと見なされていたようです。

ひとくちメモ
手話は、1760年にフランスの神父が聾唖学校を設立して教育を行っていた際に
そこで読み書きを学んでいた人々がサインを出し合って作り上げたものだそうです

12歳ぐらいでアンガス伯ジェイムズ・ダグラスと婚約しましたが
アンガス伯は、ジョアンが姉マーガレットに会いにフランスに行っている間に
亡くなってしまいます。

マーガレットが亡くなった後、王太子ルイ(11世)との結婚話もあったようですが
意思表示が十分できないということで実らなかったようです。
でも、実らなくってよかったと思うわ。

ジョアンは12年ほどスコットランドには戻らず、フランス宮廷か
姉のイザベラがいるブルターニュで過ごしていました。
後にハプスブルク家に嫁ぐ四女エリナーも一緒だったので、心強かったでしょうね。

フランスでの婚活はうまくいかなかったみたいで、29歳の時
スコットランドに呼び戻されダルケイス男爵ジェイムズ・ダグラスと結婚します。
けっこう晩婚ですね。
ジェイムズ・ダグラスはジョアンの2歳年上で初婚です。
この結婚でモートン伯爵に叙されています。

ジョアンとジェイムズ・ダグラスは、ジョアンの弟ジェイムズ2世から説得されて
結婚しましたが、仲睦まじさで知られています。
亡くなったのも同じ1493年で、ジョアンが4ヶ月夫に先立って亡くなっています。
肖像画の変わりに載せているのは二人の棺です。
仲良く並んでいますね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと野球コーナー
ぼーっとしてたら世界野球プレミア12が開幕していたという…
小久保ジャパン、頑張ってください。 西武のおかわり君が活躍しますように…

スコットランド王ジェイムズ1世王女 エリナー

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ペンを走らせた王女
ジェイムズ1世王女 エリナー・スチュワート
オーストリア大公ジギスムント1世妃

1433~1480

ジェイムズ1世とジョアン・ボーフォートの四女エリナーは、姉のイザベラ同様に
文学好きで詩集が出版されたという父王の血を受け継いでいました。

フランス訪問後、16歳で、チロルを治めていたオーストリア大公ジギスムントと結婚します。

ジギスムントはフランス語があまり得意でなく、忌み嫌っていましたが
中世騎士物語や実話が好きで、自分でも執筆していました。
夫婦で文章を愛するなんて素敵ですわね。
ただ、この方は政治的にはあまり優秀ではなかったようです。

エリナーは『ガリシアの王子の歴史(直訳)』の、フランス語からドイツ語への翻訳に
携わったそうで、この本は広く親しまれたらしいです。

1480年に出産で亡くなったというのですが、47歳の時なのよね…
なにかの間違いじゃないだろうか?
男の子を生んだみたいなのですが、一緒ぐらいに亡くなったみたいで
ジギスムントには後継ぎはありませんでした。
オーストリアのシュタムスに葬られました。

ジェイムズ1世の五女メアリー(1434~1465)は、さらーっと流すと
10歳(?)で、グラーンプレイ伯子ウルフレドと結婚します。
これは、スコットランドと現在のベネルクス三国あたりの結びつきの強さを示すためでした。
1465年に亡くなりました。
            


理不尽な離婚を乗り越えた王女
ジェイムズ1世王女アナベラ
ジェノヴァ伯ルイージ・ディ・サヴォイ夫人
2代目ハントリー伯ジョージ・ゴードン夫人

1436~1509

いよいよ六女、末っ子のアナベラの名は、祖母アナベラからいただいてます。

1447年、11歳ぐらいでジェノヴァ伯ルイージと結婚しました。
なのですが、1458年にフランスのシャルル7世からの要請でこの結婚は無効になります。
なぜにいきなり?
この後ルイージは従姉妹にあたるキプロスの女王シャルロットと再婚して
自分もキプロス王になるのよね…
しかも離婚は、シャルロットの夫ジョアン・デ・コインブラの急死のすぐ後なのよね…
いろいろ渦巻いてますね。

スコットランドに戻ったアナベラは、2代目ハントリー伯ジョージ・ゴードンと再婚します。
          

ところがところが、1471年、アナベラはまたまた離婚するハメに…
理由は、ジョージ・ゴードンの最初の妻エリザベス・ダンバーとアナベラが
3親等か4親等で、同族との結婚にあたるからってことらしいんだが…
そんなの離婚理由になる? 前妻と今の妻が親戚で何がいけないんだろう?
宗教的な理由なのでしょうか? 
だけど子供が(一説によると)6人も生まれた後ですよ。 何をいまさらって感じじゃない?
         
その後ジョージ・ゴードンは自分の娘を三人目の妻の弟と結婚させてます。
こっちの方がびっくりするでしょ。

離婚から38年後に73歳で亡くなってますが、離婚後のエピソードはありません。
一人で寂しく老後を送ったのか、「せいせいしたわ!」と、おひとりさまを楽しんだのか
気になるところ… でも、きっと人生を楽しんでいたと考えましょう。

(参考文献 森護氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー


今年のBIGBANGはものすごーく楽しかったよぉ!やはり新曲があると嬉しさUPです
あ~! テソンのドラマー姿!もしっそっそ…  ところでスンリって前からあんなに関西弁だったっけ?

スコットランド王ジェイムズ2世王女 メアリー

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          肖像画が無いので、お母さまのメアリー・オブ・グェルダーを…

舅の欲と兄の欲の犠牲になった王女
ジェイムズ2世王女 メアリー・スチュワート
アラン伯トマス・ボイド夫人/ジェイムズ・ハミルトン卿夫人

1453~1488

ジェイムズ1世の後を継いだジェイムズ2世と王妃メアリー・オブ・グェルダーには
五男二女のお子様がいました(長男は生後すぐ亡くなっています)。

メアリーは長女で、8歳で即位したジェイムズ3世の、2歳年下の妹です。
1467年、14歳ぐらいでトマス・ボイドと結婚しました。

トマス・ボイドの父ロバート卿は、母メアリーとセント・アンドリューズ司教の
ジェイムズ・ケネディという後見人を亡くした14歳の王ジェイムズ3世を抱え込み
自らが王のように振る舞っていた人物です。
王族との繋がりを持っていずれは王家に…なんて考えて息子と王妹を結婚させたのかしら。
          
メアリーの持参金はアラン島で、トマスはアラン伯に叙位されました。
結婚後すぐに男の子が生まれ、翌年には女の子が生まれています。
政略結婚ですが、仲が良さそうでよかったですね。

結婚から2年後、トマスはジェイムズ3世のお妃になるマーガレット・オブ・デンマーク
エスコートするために、デンマークへ行くことを命じられます。
実はジェイムズ3世は、ボイド一族の打倒を計画していました。
トマスのデンマーク行きは、トマスと強力な一族を引き離す作戦だったようです。

メアリーは兄王の意志を察知すると、リース港に向かい、夫に警告を与えました。
しかも警告を与えるだけでなく、一緒に出航しちゃったみたいです。

出航後トマスは捕らえられ、称号も勲章も領地も全て没収されてしまいます。
そして、トマスの弟は反逆罪で処刑されました。

けれども、ジェイムズ3世はこの時18歳なのよね、しかも繊細で気弱な王様だったそうで
自分で下した決断というよりは、反ボイド派な貴族たちにのせられてしまったみたいです。

それでも夫の無実を訴える妹メアリーをディーン城に閉じ込めて
トマスとの結婚が無効になるまで出してあげませんでした。

何もかも奪われたトマスのその後の消息ははっきりしていません。
1471年から1473年の間に、アントワープで亡くなったとされています。

結局メアリーとトマスの結婚は、1473年に無効となりました。
その翌年、メアリーはジェイムズ・ハミルトン卿の後妻になります。
ジェイムズ・ハミルトンはメアリーよりも40歳ぐらい年上でした。
         
トマス・ボイドの時にはアクティブなエピソードがあったメアリーですが
再婚後はどんなふうに暮らしていたのかまったくわからないっす。
35歳で亡くなりました。

二人には二男一女のお子様が生まれています。
16世紀、メアリー女王の時代に、孫のジェイムズ・ハミルトンが
政治の舞台で活躍したようです。
また、娘方の玄孫ヘンリー・スチュワートが、メアリー女王の夫になります。
この二人の息子が後にイングランドのスチュワート家へと繋がっていきます。

本人のエピソードは少なくとも、王家にとってはかなり重要な人物と言えそうですね。
せめて肖像画ぐらいあってほしい…

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことドラマコーナー
『下町ロケット』 何が気になるって、要潤の次に気になってしかたがない小泉孝太郎が悪役じゃないのぉ
でも、社運がかかってる&高視聴率ドラマ出演、頑張ってね~! さらにバカリズムが今後どう動くのかも気になります

『書店主フィクリーのものがたり』あ~! 本屋さんになりたい!!

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THE STORIED LIFE OF A.J.FIKRY 
2014年 ガブリエル・ゼヴィン

この物語が、良い小説なのかそうでないのかは、私にはわかりません。
ただ、ものすごくよいお話しだったと思っています。

本屋と言うシチュエーション、多彩なキャラクターの愛すべき登場人物たち、
とんとん拍子といってもいい物語のハッピーな展開…
もう、空き時間がくるのが待ちきれなかったですよ。

島にたった一軒しかないアイランド・ブックスに、ナイトリー・プレスの営業
アメリア・ローマンが訪ねていくところから物語が始まります。

店主、A・J・フィクリーは、2年前に妻ニックを自動車事故で亡くしてから
変わり者&頑固者に拍車がかかり、孤独な毎日を送っていました。

大切にしまっていた、高価な希少本、ポーの『タマレーン』が盗まれた数週間後
A・Jが夜のジョギングから帰ると、店の中に小さな女の子が置かれていました。
女の子はマヤと名乗り2歳だと言います。
残されていた手紙から、マヤは捨て子だとわかりました。
翌日、若い女性の死体が海で見つかり、自殺したマヤの母だと判明しました。

で、A・Jはマヤを引き取る決心をして、それからどんどん人生は好転するわけなのね。
もう、こんなにわかりきった展開でよいのでしょうか? というぐらいうまくいきます。

タイトルどおり、A・Jの後半生を描いた物語で、最後には彼に死が訪れるのですが
それさえも、悲しさよりも、爽やかで心地よい読後感をもたらしてくれました。

とにかく、たくさんの作家名と作品名が登場する物語で、知らない物多数でしたが
知っている作家や作品が出てくるとそれだけで心弾んじゃった!
特に、A・Jがマヤに残した手紙なのかメモなのかが、各章のトップにあるのですが
「これを読むといい」とおすすめしてる本の中に自分のお気に入りがあったら
すごくすごく嬉しくなったりして… ちょっとあげてみるね!

ロアルド・ダールの『おとなしい凶器』『古本屋』
アーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』
フラナリー・オコナーの『善人はなかなかいない』
マンスフィールドの『人形の家』、それ以外にもたーくさんたくさん…

もちろん、おススメコメントは、私みたいにいいかげんなものでなく
文学的、哲学的にちゃんとしたもんですので安心してね。

最後に、A・Jからアイランド・ブックスを引き継いだ元警察署長ランビアーズが
語った一文を載せときます。
本好きの皆さんは、たぶんこの部分にものすごく共感できると思います。
たとえ好きなジャンルは違ってもね。

「ー前略ー おれは、本のことを話すのが好きな人と本について話すのが好きだ。
おれは紙が好きだ。紙の感触が好きだ。ズボンの尻のポケットに入ってる本の感触も好きだ。
新しい本の匂いも好きなんだ」

ひとことK-POPコーナー
A・Jといえば… U-KISSのA・Jはいつアメリカから帰ってくるんでしょう?
U-KISSといえば… イライ~! おどろいたさ!! おめでとうというべきでしょうが、ペンのみなさんの心中を考えると…

『郊外の一日 新チェーホフ・ユモレスカ1』つくづく短編名人!

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1884年~1887年 チェーホフ

“ ユモレスカ “ が “ ユモレスク ” と同じ意味で使われているとしたら
少しこっけいなものを集めた小作品集というようなことになるのでしょうが
あまりその部分にとらわれずに読む方が良いようです。

とにかく幅広い… なんでも書いてるんですね、チェーホフ。
そこらへんを歩いてて目にした物事は、たとえば絵画で言う写生のように
すぐその場で小説にしちゃってたんじゃないかっていうぐらい
多様なテーマを扱っています。

喜怒哀楽、いろいろな感情を持って読めるお話しが31篇!
いくつか印象に残ったものをご紹介します。

『郊外の一日/1886年』
朝の8時過ぎ、靴屋のテレンチーが畑にいると、6歳の浮浪者の娘フョークラが走って来て
伯爵の森で木の洞に突っ込んだ手が抜けなくなった兄のダニールカを助けてと言います。
テレンチーは「やれやれ」と腰を上げると、村を抜けて伯爵の森に向かいます。

すっごくいい話しなのよぉ!
こういう大人がたくさんいたら、世の中はよくなりそうな気がする…
だけど、他の話しを読むとそうも思えなくなってしまうんだけど…

『花婿とパパ 現代的な或る小景/1885年』
ピョートル・ミールキンは、まわりの人々から、コンドラーシキン家の娘
ナスターシャと結婚するのかと聞かれて、誤解を解くために彼女の家に向かいます。
しかし、出て来たナスターシャの父親は、娘と結婚しろと言って一歩も引きません。

下手なのよねぇ… ピョートル・ミールキン
モームに『家探し』っていう話しがあるんだけど、こういうふうにしなきゃ!
それより(たぶん食費をうかせたいからって)その女性の家に通い続けたのがどうかと思う…

『聖なる純朴 物語/1885年』
教会の高齢の院長ジェズローフ神父のもとへ、15年ぶりに息子が訪ねて来ます。
モスクワで名高い弁護士になっている息子を料理女に自慢したい神父でしたが
息子は、破産しそうになった話しや、離婚した話しを披露します。

世代間ギャップに加え、田舎と都会で暮らすうちに生じる人生観のズレや
金銭感覚の大きな大きな違いが浮き彫りになる一編です。
こういう親子はかなり多いと思う。

『父親/1887年』
ムサートフ老人が息子のボリースのところに、またもや金の無心に来て泣き言を言います。
何も言わず金を渡すボリースに、老人は、息子が三人とも親切だと涙を流します。
しかし、送って来た息子を家に入れると、女たちの前では偉そうに振る舞います。

この話しをどう受け取ればいいのか、途方に暮れてます。
どんな親でも孝行しなさいよっていう教訓なのか、情けない父親を笑い者にした話しなのか
のんだくれで落ちぶれた老いた父親の哀愁を読み取るべきなのか… もう少し悩んでみます。

私はチェーホフの短篇集をけっこう持ってまして、中には箱入りで何十話もおさめられている
ものもあるので、もちろん重複しているも話しがあるのですが
買う度に未読のものが少なからずあることに驚きます。
しかも、チェーホフは若くして亡くなっているので、執筆期間は短いですよね?

本当に、何かの待ち時間中にちゃちゃっと書いてたとしか思えない多さ!
しかし片手間で書いたとは思えない完成度!!
ちゃんと寝ていたんでしょうか? 寝る間を削っていたんじゃないかと心配になります。
今心配してもしかたないんだが…

ひとことフィギュアスケートコーナー
羽生君、すごいよねぇ… で、グランプリシリーズ・ファイナル見てたらリンク脇日本人(女性)多かったよね?
近ツーとかJTBがツアー組みましたかね? 広告も日本のばっかりだし…NHK杯かと思っちゃったわよ

スコットランド王ジェイムズ2世王女 マーガレット

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        肖像画が無いので、すごい美人と言われた曾孫アグネス・ダグラスを

愛人の座を選んだ王女
ジェイムズ2世王女 マーガレット・スチュワート

1455~没年不明

いろいろあってブログをアップしない間に年が明けてしまった…
おめでとうごさいます。 今年もよろしくお願いします。

では新年第一号、スコットランド王女マーがレットにまいります。
マーガレットはジェイムズ2世とメアリー・オブ・グェルダーの末っ子です。
生年は1453~1460年とかなり曖昧です。
1460年に父王ジェイムズ2世を、1463年に母メアリーを亡くしています。

イングランド王太子エドワード、初代クラランス公ジョージ・プランタジネット
エドワード4世の義弟リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルなどと婚約したり
縁談があったりしたのですが、いずれも破談になりました。

縁談があった方々の関係はこんな感じ。
       
ヨーク家もランカスター家もスコットランドを抱え込んでおきたかったみたいですね。
遡ればヨークもランカスターもプランタジネット家なんだけど…

さて、マーガレットですが、破談が先かこちらが先かは不明ですが
3代目クリントン領主ウィリアム・クリントンの愛人でした。

1478年に娘マーガレットが生まれてる説があるのですが、そうすると
アンソニー・ウッドヴィルと婚約した頃には、お付き合いが始まっていたことになるかも…

ウィリアム・クリントンは、意図的にマーガレットに近づき、まんまと落としたそうです。
これは政治的野心とかからではなくて、自分の奥さんが、マーガレットの兄ジェームズ3世と
不倫してるらしいと気がついたかららしいです。

浮気された夫の復讐として、どうして王妃のマーガレット・オブ・デンマークじゃなくて
妹にいきましたかね?

なんでもジェイムズ3世は妹マーガレットをものすごく可愛がっていて
近親相姦のウワサもあったほど…
         

王女マーガレットは、そんなウィリアムの気持ちを知っていたのか知らなかったのか
いずれにしても、その誘惑に負けてしまいまして、ウィリアムと愛し合うようになりました。
マーガレットは家名を汚すふしだらな娘と囁かれるようになってしまいました。

しかし、妹が可愛いジェイムズ3世は、マーガレットが生んだマーガレット(ややこしい…)を
宮廷で育てることを許していました。

それなのに、ウィリアム・クリントンは、ジェイムズ3世に反乱を起こした
王弟オールバニー公アレグザンダーに加担して反乱に加わり
自分の領地をオールバニー公軍の駐屯地に貸し出したりしています。
妻を獲られた夫の恨みはおそろしいっすね!

反乱は失敗に終わり、オールバニー公が破れ処刑された後
ウィリアムは広大な領地とタイトルを剥奪され、イングランドに追放になります。

ここからはウォルター・スコットの記録によりますが
ウィリアムがイングランドに追放になってすぐ、本妻が亡くなったそうです。
一方、マーガレットはウィリアムがいなくなって半狂乱になっていました。

ジェイムズ3世は、妹の悪評を払拭しようと、ウィリアムの罪を解くと妹と結婚させました。
自分に反旗を翻した人物だけど、妹のことを考えたらしかたない…と思ったんですかね?

スコットの記述によると、その後はクリントン家の領地で過ごしたことになってるので
帰国も許されたようですね。
しかし、没年もわかりませんのでね… 王家とは没交渉だったのでしょうか?

近代の歴史家の中には、マーガレットのことを冷淡に評している人もいるようです。
「その美しさにかかわらず下劣な人格」とか「美しかったが評判は最低以下」とかね。

不倫、近親相姦と話題性充分な王女ですよね。
本当にスキャンダラスな女性だったのか、ただ恋に一途なだけの女性だったのか
キャラクターがわからないのが残念ですね。

で、突然ですが、スコットランド王女編は最終回です。
なぜか…

ジェイムズ3世と王妃マーガレット・オブ・デンマークには、王子ばかり三人が誕生。
ジェイムズ4世と王妃マーガレット・テューダーには王子が四人おりますが
王女は二人とも流産しました。
ジェイムズ5世の王女は、ご存知メアリー・スチュワートです。
ジェイムズ6世からはイングランド王女編をごらん下さい。

(参考文献 森護氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとこと予告コーナー
あいかわらず、次の準備をなーんにもしてない…
スコットランド編最終回を先延ばしにしている間に準備しようと思っていたんですけどね…

『微笑みを誘う愛の物語』“ やる、やらない ” を高尚に語ってみる?

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SMESNE LASKY 
ミラン・クンデラ

私の中で、トマス・ピンチョン、ポール・ボウルズ、ミラン・クンデラは
難解な巨匠というイメージが勝手にできあがってまして、一生読むことはないと
思って生きてきたわけですが、なぜか、各一冊づつ本棚にあってビックリし
とりあえず、短篇集だったミラン・クンデラを読んでみたわけですけれど…

ダメだった…やっぱり
この一冊におさめられている作品を読む限りっていうことですが
どこがよくて愛読者がたくさんいるのかさっぱりわからないっす。

難解な話しには思えないのですが、きっと深い意味が込められているんでしょうね?
まったくもって読み取ることができませんでした。

7篇おさめられているんですが、ストーリーのテーマは、すごく簡単に言うと
男性による、セックスへの美学とか、究極の愛はセックスで完成するのか否か、とか
そんな感じ? それを噛み砕いて庶民的に描いて下さっています。

つまりは、「やる」「やらない」の話しなのよぉ。
性的な描写はほとんど出てきませんが、思考で、会話で、態度で
「やる」「やらない」「やりたい」「やっちまった」を表現しています。

うーん、なんて説明したらいいかわからないぞ…

だからあらすじを書くのもやめとくね。
なにひとつ吸収も消化も共感もできてない感じで、頭の中は???です。

物語が書かれているのは1963~1969年です。
その時代のチェコが、どういう政治体制だったのかはよく知らないんですけど
休暇とか旅行の許可をとるのが難しかったようですし、相手を「同志」と呼ぶし
目をつけられると監視役に呼び出されるし… 東側の国でしたっけ?

そんな厳しい環境の中、セックスのことばかりを考えていられる男性陣があっぱれですね。
女性もなんですけど…
それしか自由に考えられる娯楽がなかったということでしょうか?

本当は、極限状態にある男女の性に対する心理とか、どんな主義や体制や規制も
コントロールできない愛の意味について、深く鋭く書き表した名作かもしれないです。
でも私には理解できないので、これ以上ミラン・クンデラについて考えるのはやめときます。

ついでに、トマス・ピンチョンとポール・ボウルズも、読むのは当分やめときます。

ひとことアイドルコーナー
私はもとハードロックファンで、現K-POPファンで、ジャニーズとはあまり関わりをもたずに生きてきたわけですが
さすがにSMAPの成り行きにはドキドキしました。 5人でいるのが当たり前みたいに思ってたのに…
東方神起のこともあるし、K-POPアイドル好きとしては人ごとではなく、ひとまずホッとしているところです

ノルウェー王ハーラル1世妃 ガイダ

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                肖像画がないのでヴァイキングの貴婦人
                スウェーデンかデンマークで使ってるかもしれませんが…

ハーラルを王にした・・・という伝説を持つ王妃
ハーラル1世妃 ガイダ・エイリークズダター・アヴ・ホーダルランド

生没年不詳/在位 872~930

今回は、スウェーデンやデンマークとともに北欧を形成する王国ノルウェー王妃編です。
ノルウェーは、スウェーデンやデンマークと共治になっている時期も多いので
すでに出た王妃も多くいますが、それ以外の王妃たちをご紹介。

スウェーデン、デンマーク同様、名前・地名の読み方がよくわかってませんので
間違っていたら教えてください。

ガイダは歴史書に登場する最初のノルウェー王妃です。
         
ハーラル1世はノルウェーを統一し、初代王になった人物ですが、その影にガイダあり!と
言い伝えられている王妃です。

ガイダは、ヴェストフィヨルド王だったハーラルから求婚された時
「ノルウェー全土の王になるまでは…」とお断りしています。
ハーラルは、王になるまで髪を切らないし、クシも入れない(ブラッシングしない)と
誓いを立てたそうです。
そのせいで、ハーラルの頭はとんでもないボンバー状態になってたはず… おそろしや

それから10年、872年にノルウェーを統一王となったハーラルはガイダに使者を送り
結婚しましたとさ… めでたし、めでたし
その前に、ボサボサ頭は返上してキレイに整えていたそうですよ。
“ 髪を刈った ” と表現している書籍もあります。 10年分だもんね…
その後ハーラルは美髪王と呼ばれていました。

ハーラル1世は、順番はわかりませんが5回結婚しているんですよね。
王になるやいなやガイダと結婚したということは、初婚?
もし先に結婚してたとしたら、苦楽を供にした妃はどうなった?

それから、ガイダはハーラルが亡くなるまで王妃の座にいたことになってるのよね…
一夫多妻制ですかね? キリスト教布教前でしたのでね…

王家創成期にはありがちな伝説ですが、古典学者の多くは、この言い伝えを
Heimskringlaが書いた恋愛小説がもとになっていると考えているそうです。

他の王妃の詳細はわかりません。
次王エイリーク1世の母親はガイダではなく、ユトランドのエイリークという人の娘
ラグンヒルドという女性です。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー


やっちまった!! 初の遠征 to マリンメッセ福岡 SHINee WORLD 2016 D×D×D ツアー初日
嬉しいセトリとアレンジ、悲鳴ものVありの、素敵で楽しいステージでした。 これでまた3月まで頑張れる…

ノルウェー王エイリーク1世妃 グンヒルド

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在位は短いけどエピソード満載の王妃
エイリーク1世妃 グンヒルド・ゴームズダター

910~980/在位 931~934

他の王妃たちのエピソードがほとんどないこの時代にあって
肖像画(というか挿し絵)と(主に良くない)エピソードがもりもりあるグンヒルドは
両親についてもいろいろな議論があるそうです。
一応、デンマーク王ゴームとチューラの王女ということになっていますが
Halogalandの族長Ozur Toriの娘という説もあったり
二人の魔法使いと暮らし、魔術を学んでいたという噂もありました。

エイリークとグンヒルドが出会ったのは、ゴーム王の祝宴でした。
二人の結婚は、デンマークとノルウェーの同盟と統合まで視野に入れたものでした。
ということは、やっぱりゴーム王の王女なのかしらね?
         
エイリークとグンヒルドとの結婚後、ハーラル1世の死に先立って、エイリークの異母兄妹で
人気者だったハルフダンが急死しました。
不審な亡くなり方だったようで、人々はグンヒルドが毒を盛ったと噂しました。

ハーラル1世が亡くなると、とりあえずエイリークが即位します。
しかしエイリークは専制的な君主だったようで、他の兄弟たちとの争いは激化します。
グンヒルドはエイリークを煽って、たて続けに4人の兄弟を殺害させました。
エイリークにとってグンヒルドはベスト・パートナーかも…と思えますね。

しかし、そんなエイリークの統治に貴族たちが反発し、即位からわずか3年後
異母弟のホーコンを王だと宣言して、エイリークを追放しました。

エイリークご一行は、父王ハーラル1世が支配したオークニー諸島に落ち着くと
オークニー王になり、さらには、ノルウェーが支配していたイングランド北部を訪れて
ヨーヴィック王を名乗ったりしてました。
どんなに小さい国でもいいから “ 王 ” と呼ばれたかったのかしらね?

グンヒルドは、エギルという詩人との軋轢が有名で詩にも書かれているらしいのですが割愛。
簡単に書くと、仲違いしたエギル兄妹を殺そうとしたら、逆に兄たちが殺されちゃって
つかまえた後、エイリークが釈放しようとすると「処刑して~!」と騒いだらしい。

954年、エイリークが亡くなると、グンヒルドは子供たちを連れてデンマークへ避難します。
デンマークの王はハーラル青歯王で、もし、グンヒルドがゴーム老王の王女だとしたら
お兄さんか弟にあたりますね。

グンヒルドの王子たちは、ハーラル青歯王に、まるで自分の子供たちのように
可愛がられたそうです。
ハーラル王青歯王は、グンヒルドの王子をノルウェー王に据えようと考えます。

ホーコン対ハーラル(グンヒルドの王子)の争いは、本当はノルウェーの勝利でした。
でも、ホーコンがFitjarの戦いで戦死したことで、ホーコンを倒したハーラルの勢力が
ノルウェー内で拡大し、ハーラルが王に就くことになりました。

ノルウェーに凱旋した時のグンヒルドのドヤ顔! すごかったでしょうね。

ハーラルをはじめ、グンヒルドの王子たちは、これまで国内を治めてきていた族長や領主を
殺害したり退けたりして自分たちの権力を増大しようとします。
でもハーラルを操っていたのは実はグンヒルドでした。

グンヒルドは、息子ハーラルの治世中ノルウェーを訪れていた
アイスランドの族長Hrut herjolfssonの愛人になります。
彼女はHrutに夢中で、あまりにもおおっぴらだったので、二人はてっきり結婚したものだと
思われていたそうですが、Hrutは国に妻がおりました。
結局Hrutはアイスランドに帰ってしまったようですが、グンヒルドが渡した土産は
すごかったらしく、妻にバレちゃいまして、Hrutの結婚生活は破綻しました。

971年、息子ハーラル2世が亡くなりました。
グンヒルドの王子たちと、族長ホーコン・シグルッソンの間に継承戦争がおこりました。
ホーコンが勝利し、グンヒルドは再びオークニーへ向かい、その後デンマークに戻りました。

しかし、前回はあたたかく迎えてくれたハーラル青歯王は、今回は様子が違ったみたい…
グンヒルドはハーラル青歯王の命令で沼で溺死させられてしまいました。
ハーラル青歯王は、兄妹愛ではなくて息子を利用するために優しくしてくれていたのかしら?
(実話かどうかは不明なんだけどね…)
              
                 年老いた流浪のグンヒルド
                   上の絵が迫力満点なだけに、哀れですね

叙情詩となって語りつがれる悪女とは… スケールでかいですね。
中世にはよくあることですが、王家が変わった時に悪者にされちゃったのかもしれません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
わーいわーい! MステにBIGBANG登場!! 嬉しいですね
楽屋での畳上の5人がオモカワでした。 畳の楽屋って日本だけなのかなぁ?

ノルウェー王オーラフ1世妃 ゲイラ

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ハンサムな王様だったらしいよ!
オーラフ1世妃 ゲイラ

965~985/在位せず

エイリーク1世を継いだホーコン、その次のハーラル2世は未婚でした。
その後はデンマークとの共治になりまして、ハーラル青歯王妃はギリテ、トーヴェなどの
妃がおりました。

オーラフはハーラルの一族の出ですが、王様になる前はヴァイキングでした。
海外を渡り歩き、キリスト教に改宗後、帰国して王になりました。
キリスト教化を推し進め、ノルウェーに初めて教会を建てた王だと言われています。
でも、ちょっと強引すぎたみたいです。

さて、最初の妃ゲイラですけど、彼女はオーラフがノルウェー王になる前に結婚しました。
ヴィンドランドという国の王女らしいです。 ヴィンドランドってどこでしょう?
          
13歳ぐらいでどこかの王子と結婚しましたが、3年後に死別しました。
ノヴゴロドから帰還中のオーラフが嵐に遭ってヴィンドランドに寄港した時に
国を治めていたゲイラに会いました。

ゲイラは「冬の海は恐ろしいほど荒れるゆえ(この部分は想像)、冬の間いらしたら?」と
持ちかけ、オーラフがこれを受け入れました。
ゲイラの作戦勝ち? 二人は982年に結婚しました。

ゲイラは納税を拒んでいた貴族たちから、税金を取り立てることに成功したりしたそうで
けっこう押しが強い女性だったんじゃないかしら?
それより、こんなに昔から税金があったっていうのに驚いた!
まだ国として機能してないような状態だと思うんだが… 税金というよりは上納金かな?

結婚から3年後にゲイラが亡くなります。
オーラフはすごく悲しんだそうで、上の絵がその時の様子です。
でもゲイラがいなくなるとヴィンドランドにいられなくなり、国を後にしました。
ゲイラが長生きしていたら、ノルウェー王にはなってなかったかもね。


ありがちなエピソードを持つ妃
オーラフ1世妃 ガイダ

生没年不詳/在位せず

ダブリン王の妹らしい… 小さい王国がたくさんあったんですね。
そして、北欧と英国方面は当時から盛んに行き来してたのですね。

ガイダはどこかの伯爵と結婚して未亡人になると、次の夫探しに乗り出しました。
求婚者はたくさんいたようですが、ガイダはなかなか「うん」と言いませんでした。
そんな中、オーラフは、ガイダから招待を受けて訪ねて行ったのですが…

さぁ、皆さん、ここからはどこかで聞いた話しの展開になりますよ。

オーラフは自分がボロい服を着て、従者にキレイな服を着せていたのですが
ガイダはオーラフをちゃんと見抜いたっていう…

オーラフはガイダと結婚し、イングランドとアイルランドで幸せに暮らしましたとさ。



              
夫運悪い?
オーラフ1世妃 ティーラ・ハーラルズダター

生年不詳~1000/在位 995~1000

いいですねぇ~、北欧三つ巴な家系図。 王家の家系図はこうでなくっちゃ!
         
ティーラは、デンマーク王ハーラル1世と、スウェーデン王女ギリテの王女です。

最初はおじにあたる王太子スティンビョルンと結婚しましたが
スティビョルンは、985年に、エリク勝利王との継承争いに敗れて亡くなります。

次にポーランドの王子と結婚したらしいけど、やはり死別しました。

それでその後に、いつの間にかノルウェーに帰って王様になっていた
オーラフと結婚したわけですが、強引にキリスト教化を進めていたオーラフは
スウェーデンとデンマークの支援を受けた反乱軍に敗れて亡くなりました。
でも、スウェーデンもデンマークも、キリスト教化は進めてたはずだけどね…
他の国の王が倒れるなら、理由はなんでもよかったのかもしれませんね。

言い伝えでは、ティーラはオーラフ死亡の報せを聞くと、断食して自殺したそうです。
本当かなぁ…

ちなみに、オーラフ1世はハンサムだったそうですよ。
3人の妃のエピソードを見ていると、ですよね~、って感じです。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
BIGBANG見たさに初めて見たMomm!!なのですが、「口パク」とか「歌ってない」って
あんなにハッキリ言ってケンチャナ? 中居くーん
口パクにうるさくなってきた韓国なだけに、BIGBANGのみんなの興味しんしんの表情が印象的でした

ノルウェー王オーラフ2世妃 アストリッド

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偉大な王の善き妃
オーラフ2世妃 アストリッド・オーロフズダター

生年不詳~1035/在位 1019~1030

アストリッドは、スウェーデン王オーロフ・シュートコヌングの王女ですが
母親は愛妾のエドラという女性でした。
実の兄はエームンド老王、義理の兄弟にアーヌンド・ヤーコブがいます。
       
アストリッドとエームンドは、義理の母エストリッドとうまくいかず
別々に里子に出されました。
アストリッドは、ヴェステルイェートランド地方に送られました。

1016年、ノルウェーとスウェーデンは平和的な関係を築くべきだという合意に至り
お決まりの婚姻関係を結ぼうということになりました。

最初に話し合われたのは、本妻エストリッドとの王女インゲゲルドでしたが
父王オーロフが反対してアストリッドに代わりました。

インゲゲルドは、キエフ大公ヤロスラフ1世の妃になります。
どっちかっていうとそっちの方が重要で、本妻の娘が選ばれちゃったのかもね。

オーラフとエストリッドは、1019年に結婚しました。

代わりにやってきた妃でしたが、アストリッドは美しく明瞭で寛大な女性でした。
義理の息子のマグヌス(後の善王)のことも可愛がり、良い関係を築きました。
自分が受けた辛い思いを、義理の息子にはさせたくなかったのでしょうね。

1030年、アストリッドは、オーラフ2世が反乱軍に殺されて未亡人になると
ノルウェーを去りスウェーデンに帰国します。
スウェーデンは義理の兄弟アーヌンド・ヤーコブの治世中でしたが
アストリッドは宮廷で高位を与えられました。
義理の兄弟とも良い関係を築いていたんですね。

義理の息子マグヌスがストックホルムを訪れて、ノルウェーの王位継承の申し立てをした時は
公式に援助を与えました。
マグヌスの即位は、アストリッドの後押しも大きな助けになっていたかもしれません。

オーラフ2世は、第二の建国者と言われるほど、国力を高めた王だったそうです。
賢王と良妻のベストカップル… なぜ反乱がおきるか不思議ですよね… 中世時代。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
テミンの美しさに息をのんでいる今週ですが、来週はいよいよ…
オニュにオペ服をきせるなんて! なんて罪つくりな韓国ドラマ界! やっぱりスカパーに加入するべきなのだろうか…
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