“ 雌トラ ” と呼ばれた王妃
ヴワディスワフ2世妃 アグニェシュカ・バーベンベルゲ
1108〜1163/在位 1138〜1146
ボレスワフ3世の影薄ーい一人目の妃ズビシュワヴァが生んだヴワディスワフ2世は
けっこう有能で王様の素質があったみたいなのですが、異母弟たちとの争いが絶えず
結局国をおわれて他国で没しました。
ヴワディスワフ2世の父ボレスワフ3世は領土を保持するために神聖ローマ帝国に反抗していて
神聖ローマ皇帝ロタール3世と敵対する強力な同盟者を手に入れようと探していました。
そこで、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世を祖父に持つロタール3世の宿敵バーベンベルク家の
アグニェシュカと王子ヴワディスワフの結婚を決めました。
二人は1125年に結婚しました。
ボレスワフ3世はお祝いに二人にシレジアを送っています。
1138年にボレスワフ3世が亡くなると、ポーランドは息子たちに割譲されましたが
ヴワディスワフは長男だったので、一応最高権力者になります。
しかし、ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアをはじめ弟たちは納得しないでしょ?
前項で書いたとおりシャロメアはボレスワフを失脚させようと必死に反抗します。
一方、アグニェシュカは長男である夫が単独の君主でないことに大きな不満を抱きます。
ドイツでは勢力のある家柄の出で、神聖ローマ皇帝の孫にあたるアグニェシュカは
非情に精力的で野心家で、クラクフ司教は彼女を “ 雌トラ ” と呼んでいました。
イングランド王エドワード2世妃イザベルも “ 女豹 ” なんて呼ばれてましたけど
虎の方が強そうですわね…
どうでもいいけど気の強い悪女タイプの女性を猫科の動物で呼ぶのはやめてほしいぞ。
アグニェシュカは「国を統一しなさいよ!」とヴワディスワフを煽ります。
ヴワディスワフもその気になってしまい、これがもともと不満があった弟たちとの
対立を深めていきます。
シャロメアが宮中伯を追いやる一方
アグニェシュカはシレジアの強力な領主ヴワストヴィクの失脚を謀ったりしています。
この時は目を潰して追放、なんて中世的な刑を与えました。
けれども、ヴワディスワフとアグニェシュカの専制的なやり方は裏目にでます。
家臣の忠誠心は弟たちに移ってしまいました。
結局1146年にヴワディスワフは弟たちに敗れボヘミアに逃れました。
アグニェシュカと子どもたちはその時クラクフにいて、しばらくは抵抗していましたが
やはり追放されてしまいました。
アグニェシュカの異父兄にあたるホーエンシュタウフェン家のドイツ王コンラート3世が介入し
ヴワディスワフはすぐ復権できそうな気配もあったのですが
ドイツ軍の遠征は失敗に終わります。
続いてアグニェシュカの要請でローマ教皇エウゲニウス3世が仲裁に入りますが
ヴワディスワフの弟たちは兄の帰国を断固拒否しました。
これでポーランドは教皇から破門という、当時としては恐ろしい罰をを言い渡されるのですが
これは逆に国内の教会の統一に役立って感謝されちゃう始末。
1155年に神聖ローマ皇帝がアグニェシュカの甥フリードリヒ3世になり
アグニェシュカは再び野心を燃やします。
ところが! フリードリヒはポーランド遠征を行い勝利したものの
ヴワディスワフの復権は認めませんでした。
やはり神聖ローマ帝国はポーランドを手中に収めておきたかったのね。
ヴワディスワフがフリードリヒ3世に臣下の誓いをし、年貢を納めることを条件に
シレジアがボレスワフ4世からヴワディスワフの息子に返還されることになって
やっとアグニェシュカはあきらめがついたようです。
このごたごたから2年後の1159年、ヴワディスワフが亡くなります。
アグニェシュカの没年ははっきりしていません。
1163年に次男ミェシュコがシレジアに戻って復権した時に同行していないので
その前に亡くなったのでは? と言われています。
これだけ名を轟かした女性の没年がはっきりしていないとは寂しいね。
それにしても、同時代にシャロメアとアグニェシュカという二人の野心家を抱えていた
ポーランド宮廷はすごそうですね!!
奸策、陰謀、権謀術数… いろ〜んな悪だくみが渦巻いてた予感…
歴史ドラマにもってこいじゃないですか? 主役は二大 “ 肉食系 ”女優なのね。
ポーランドではドラマになっているのでしょうか? ちょっと興味あり…
ひとことK-POPコーナー
Infiniteの新曲『Man In Love』はすごい勢いですね!
私はミニアルバム 4曲目の『恋しさの届く場所に(ハングルが文字化けするので邦題です)』がすごく好きです
ヴワディスワフ2世妃 アグニェシュカ・バーベンベルゲ
1108〜1163/在位 1138〜1146
ボレスワフ3世の影薄ーい一人目の妃ズビシュワヴァが生んだヴワディスワフ2世は
けっこう有能で王様の素質があったみたいなのですが、異母弟たちとの争いが絶えず
結局国をおわれて他国で没しました。
ヴワディスワフ2世の父ボレスワフ3世は領土を保持するために神聖ローマ帝国に反抗していて
神聖ローマ皇帝ロタール3世と敵対する強力な同盟者を手に入れようと探していました。
そこで、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世を祖父に持つロタール3世の宿敵バーベンベルク家の
アグニェシュカと王子ヴワディスワフの結婚を決めました。
二人は1125年に結婚しました。
ボレスワフ3世はお祝いに二人にシレジアを送っています。
1138年にボレスワフ3世が亡くなると、ポーランドは息子たちに割譲されましたが
ヴワディスワフは長男だったので、一応最高権力者になります。
しかし、ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアをはじめ弟たちは納得しないでしょ?
前項で書いたとおりシャロメアはボレスワフを失脚させようと必死に反抗します。
一方、アグニェシュカは長男である夫が単独の君主でないことに大きな不満を抱きます。
ドイツでは勢力のある家柄の出で、神聖ローマ皇帝の孫にあたるアグニェシュカは
非情に精力的で野心家で、クラクフ司教は彼女を “ 雌トラ ” と呼んでいました。
イングランド王エドワード2世妃イザベルも “ 女豹 ” なんて呼ばれてましたけど
虎の方が強そうですわね…
どうでもいいけど気の強い悪女タイプの女性を猫科の動物で呼ぶのはやめてほしいぞ。
アグニェシュカは「国を統一しなさいよ!」とヴワディスワフを煽ります。
ヴワディスワフもその気になってしまい、これがもともと不満があった弟たちとの
対立を深めていきます。
シャロメアが宮中伯を追いやる一方
アグニェシュカはシレジアの強力な領主ヴワストヴィクの失脚を謀ったりしています。
この時は目を潰して追放、なんて中世的な刑を与えました。
けれども、ヴワディスワフとアグニェシュカの専制的なやり方は裏目にでます。
家臣の忠誠心は弟たちに移ってしまいました。
結局1146年にヴワディスワフは弟たちに敗れボヘミアに逃れました。
アグニェシュカと子どもたちはその時クラクフにいて、しばらくは抵抗していましたが
やはり追放されてしまいました。
アグニェシュカの異父兄にあたるホーエンシュタウフェン家のドイツ王コンラート3世が介入し
ヴワディスワフはすぐ復権できそうな気配もあったのですが
ドイツ軍の遠征は失敗に終わります。
続いてアグニェシュカの要請でローマ教皇エウゲニウス3世が仲裁に入りますが
ヴワディスワフの弟たちは兄の帰国を断固拒否しました。
これでポーランドは教皇から破門という、当時としては恐ろしい罰をを言い渡されるのですが
これは逆に国内の教会の統一に役立って感謝されちゃう始末。
1155年に神聖ローマ皇帝がアグニェシュカの甥フリードリヒ3世になり
アグニェシュカは再び野心を燃やします。
ところが! フリードリヒはポーランド遠征を行い勝利したものの
ヴワディスワフの復権は認めませんでした。
やはり神聖ローマ帝国はポーランドを手中に収めておきたかったのね。
ヴワディスワフがフリードリヒ3世に臣下の誓いをし、年貢を納めることを条件に
シレジアがボレスワフ4世からヴワディスワフの息子に返還されることになって
やっとアグニェシュカはあきらめがついたようです。
このごたごたから2年後の1159年、ヴワディスワフが亡くなります。
アグニェシュカの没年ははっきりしていません。
1163年に次男ミェシュコがシレジアに戻って復権した時に同行していないので
その前に亡くなったのでは? と言われています。
これだけ名を轟かした女性の没年がはっきりしていないとは寂しいね。
それにしても、同時代にシャロメアとアグニェシュカという二人の野心家を抱えていた
ポーランド宮廷はすごそうですね!!
奸策、陰謀、権謀術数… いろ〜んな悪だくみが渦巻いてた予感…
歴史ドラマにもってこいじゃないですか? 主役は二大 “ 肉食系 ”女優なのね。
ポーランドではドラマになっているのでしょうか? ちょっと興味あり…
ひとことK-POPコーナー
Infiniteの新曲『Man In Love』はすごい勢いですね!
私はミニアルバム 4曲目の『恋しさの届く場所に(ハングルが文字化けするので邦題です)』がすごく好きです