夫の死後大活躍?
ミェシュコ2世妃 リヘザ・ロタリンスカ
995〜1063/在位 1025〜1031
リヘザはプファルツ伯エッツォと神聖ローマ皇女マチルデの娘で
神聖ローマ皇帝オットー2世の孫にあたるわけですけれども、結婚まではエピソード無しです。
小柄でプロポーションが良かったってことぐらいでしょうか?
リヘザが5歳の時、母方の伯父オットー3世は、かねてから同盟関係があった
ボレスワフ1世の王子との縁談を決めましたが、自分には子供がいなかったので
姉のマチルデの7人の娘の中からリヘザを選びました。
なんだけど、その後オットー3世が急死しまして
次の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がリヘザの実家ともめたりしたもので
結婚はリヘザが17歳になってやっと実現しました。
1025年にミェシュコが王に即位しますが、1031年に庶子である兄ベスプリムを後援する
ドイツとキエフの侵攻にあって、ミェシュコはベーメンへ逃亡します。
この時ミェシュコは投獄され、ベーメン公の命令で去勢されちゃったんですって! 中世…
ペスプリムは君主の座に就き、ミェシュコの支持者への迫害を始めました。
リヘザは王冠と財宝を抱え子供たちとともにドイツへ向かいました。
ドイツでは神聖ローマ皇帝コンラート2世の保護を受けました。
ちなみに、リヘザの祖父オットー2世や伯父オットー3世と
コンラート2世は家系が違います。
リヘザはドイツで、ポーランドと神聖ローマ帝国間の関係修復と和平のために重要な役割を
担ったってことになってたそうですが、この説は、近年は懐疑的に見られているそうです。
ミェシュコ2世とリヘザは、公式には離婚も別居も宣言していませんでしたが
結局二度と会うことはありませんでした。
1032年にベスプリムが暗殺されるとミェシュコはポーランドに戻り翌年復位しましたが
リヘザは戻っていません。
翌年ミェシュコが暗殺されて、その5年後息子のカジミェシュが継承権を得るために
ポーランドに戻りました。
この時リヘザも同行したことになっていたそうですが
こちらも近年は懐疑的に見られているらしい…
もしリヘザが1037年にポーランドに行っていたとしても、再びドイツに帰った後は
二度とポーランドに足を踏み入れませんでした。
でも自分のことはポーランド王妃と名乗っていたそうです。
この特権は、コンラート2世が与えていたってことです。
リヘザは息子のカジミェシュを王にするためにポーランドと争っていましたが
コンラート2世は最終的にこちらも援助したらしい… もしかしてリヘザに気が…
リヘザが大活躍をするのは、1047年に弟のオットーが亡くなって
財産の大半を相続してからです。
はしょっていくけど
兄のケルン大司教へルマン2世や姉のエッセン修道院長テオファヌと領地の再編を目論んだり
ヘルマン2世の死後ケルン大司教になったアンノ2世から没収されそうになった財産を
領地から運び出して抵抗したりして、手に入れた領地の大半の7カ所を
死ぬまで守り抜きました。
あまりエピソードはないのだが、王妃と名乗り続けたり財産を死守したりと
けっこう権勢欲が強かったのかしらね?
まぁ、領地が貴族の力の証しの時代、少しでも失うのは子孫に申し訳ないものね。
リヘザは1063年に亡くなる時、両親が建て、リヘザ自ら改装したブラウヴァイラー修道院の
母親の隣に葬ってほしいと希望していました。
しかし、アンノ2世はリヘザの死後「OKもらったから!」と聖マリア教会に葬りました。
この教会はヘルマン2世が着工しアンノ2世が完成させたそうで
自分が建てた教会に箔をつけたかったのかしらね?
いずれにしても、皇后でもなく、在位も短い王妃の遺体をめぐって一悶着あったということは
それなりに存在感があった女性だったのかもしれませんね。
ひとことK-POPコーナー
ソンギュのソロとinfinite Hの輸入盤を買いましょー と思って新星堂に行ったけど無くって
ついLed Zeppelinのライブ盤とSTONESの記念ベスト盤を買っちゃったわよ! K-Pop以外のCD買うの久しぶり…
ミェシュコ2世妃 リヘザ・ロタリンスカ
995〜1063/在位 1025〜1031
リヘザはプファルツ伯エッツォと神聖ローマ皇女マチルデの娘で
神聖ローマ皇帝オットー2世の孫にあたるわけですけれども、結婚まではエピソード無しです。
小柄でプロポーションが良かったってことぐらいでしょうか?
リヘザが5歳の時、母方の伯父オットー3世は、かねてから同盟関係があった
ボレスワフ1世の王子との縁談を決めましたが、自分には子供がいなかったので
姉のマチルデの7人の娘の中からリヘザを選びました。
なんだけど、その後オットー3世が急死しまして
次の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がリヘザの実家ともめたりしたもので
結婚はリヘザが17歳になってやっと実現しました。
1025年にミェシュコが王に即位しますが、1031年に庶子である兄ベスプリムを後援する
ドイツとキエフの侵攻にあって、ミェシュコはベーメンへ逃亡します。
この時ミェシュコは投獄され、ベーメン公の命令で去勢されちゃったんですって! 中世…
ペスプリムは君主の座に就き、ミェシュコの支持者への迫害を始めました。
リヘザは王冠と財宝を抱え子供たちとともにドイツへ向かいました。
ドイツでは神聖ローマ皇帝コンラート2世の保護を受けました。
ちなみに、リヘザの祖父オットー2世や伯父オットー3世と
コンラート2世は家系が違います。
リヘザはドイツで、ポーランドと神聖ローマ帝国間の関係修復と和平のために重要な役割を
担ったってことになってたそうですが、この説は、近年は懐疑的に見られているそうです。
ミェシュコ2世とリヘザは、公式には離婚も別居も宣言していませんでしたが
結局二度と会うことはありませんでした。
1032年にベスプリムが暗殺されるとミェシュコはポーランドに戻り翌年復位しましたが
リヘザは戻っていません。
翌年ミェシュコが暗殺されて、その5年後息子のカジミェシュが継承権を得るために
ポーランドに戻りました。
この時リヘザも同行したことになっていたそうですが
こちらも近年は懐疑的に見られているらしい…
もしリヘザが1037年にポーランドに行っていたとしても、再びドイツに帰った後は
二度とポーランドに足を踏み入れませんでした。
でも自分のことはポーランド王妃と名乗っていたそうです。
この特権は、コンラート2世が与えていたってことです。
リヘザは息子のカジミェシュを王にするためにポーランドと争っていましたが
コンラート2世は最終的にこちらも援助したらしい… もしかしてリヘザに気が…
リヘザが大活躍をするのは、1047年に弟のオットーが亡くなって
財産の大半を相続してからです。
はしょっていくけど
兄のケルン大司教へルマン2世や姉のエッセン修道院長テオファヌと領地の再編を目論んだり
ヘルマン2世の死後ケルン大司教になったアンノ2世から没収されそうになった財産を
領地から運び出して抵抗したりして、手に入れた領地の大半の7カ所を
死ぬまで守り抜きました。
あまりエピソードはないのだが、王妃と名乗り続けたり財産を死守したりと
けっこう権勢欲が強かったのかしらね?
まぁ、領地が貴族の力の証しの時代、少しでも失うのは子孫に申し訳ないものね。
リヘザは1063年に亡くなる時、両親が建て、リヘザ自ら改装したブラウヴァイラー修道院の
母親の隣に葬ってほしいと希望していました。
しかし、アンノ2世はリヘザの死後「OKもらったから!」と聖マリア教会に葬りました。
この教会はヘルマン2世が着工しアンノ2世が完成させたそうで
自分が建てた教会に箔をつけたかったのかしらね?
いずれにしても、皇后でもなく、在位も短い王妃の遺体をめぐって一悶着あったということは
それなりに存在感があった女性だったのかもしれませんね。
ひとことK-POPコーナー
ソンギュのソロとinfinite Hの輸入盤を買いましょー と思って新星堂に行ったけど無くって
ついLed Zeppelinのライブ盤とSTONESの記念ベスト盤を買っちゃったわよ! K-Pop以外のCD買うの久しぶり…