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Channel: まりっぺのお気楽読書
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ポーランド王ボレスワフ1世妃 エムニルダ

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               どうにもこうにも肖像画が無いので
           オダ・マイシェニエンスカの母方の祖母ヒルデガルディスの画を載せときます

寵愛された王妃でも・・・
ボレスワフ1世妃 エムニルダ・スウォヴィアンスカ

970〜1017/在位 992〜1017

ボレスワフ1世は二人目の妃ユディタ・ヴェギレリスカと離婚するやいなや
ラウジッツ領主ドブロミルの娘エムニルダと再婚しました。
        
ラウジッツとはドイツにある都市でして、確かに神聖ローマ帝国への足がかりには
なりそうですね。

エムニルダはとてもチャーミングな女性だったそうなので
ボレスワフは早くから目をつけていたのかもね!
しかもエムニルダは賢かったらしく、結婚後ボレスワフは妻に頭が上がらなかったらしい…

権勢欲が強かったんでしょうかね?
自分の息子ミェシュコをローマ神聖ローマ皇帝の重臣に加えてもらい
モラヴィアの統治者にしようと猛アピールもしていますし
前妃ユディタが生んだ長男ベズプリムから継承権も奪っています。
ペズプリムがイタリアに飛ばされたのもエムニルダの影響じゃないかと思うんだが…

ミェシュコの他に公子が一人、公女が三人生まれています。
公女のうち一人はマイセン辺境伯妃、一人はキエフ大公妃になりました。

しかし、そんなに溺愛されたエムニルダの没年は不明です。
1016年か1017年に亡くなったと言われています。
なぜなら、ボレスワフ1世が再婚しているのでね。

それに肖像画も見つからないのよね。
愛されていなかった妃の記録や肖像画が見つからないのはわかるんだけど、なぜ?


完全に政治の道具
ボレスワフ1世妃 オダ・マイシェニエンスカ

996〜没年不明/在位 (公妃)1018〜1025 (王妃)1025

ボレスワフ1世はエムニルダの死から1年か2年後に
マイセン辺境伯エッケハルト1世の娘オダと再婚しました。
エッケハルト1世の父親ギュンターはミェシュコ1世の妃ドゥブワヴァ
最初の夫と言われている人です。
それが正しい説だとすると、家系図はこういうことになります。
        
1018年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とボレスワフ1世の間で
バウツェン和平条約が調印されました。
ボレスワフ1世はドイツ貴族との繋がりを深めるため再婚を決心。
オダが選ばれ、なんと! 調印から4日後に結婚しました。

30歳近い年齢差がある上に、ボレスワフは浮気癖が治まらなかったらしく
キエフ大公ウラディーミル1世の公女プラディスラヴァとの関係を続けていました。

詳細は不明ですけど、オダも結婚前に自堕落な生活を送っていたそうで
ボレスワフが嫌悪したか、オダが「また遊びたい」と考えたかはわかりませんが
とにかく、二人の結婚生活は不幸なものでした。

「相手は誰でもいい!」と急いだ結婚… 上手くいくとは思えないものねぇ
ま、上手くいけばものすごくラッキーだったということで…

1025年4月にボレスワフ1世が王に即位した時、一緒に戴冠したという説もありますが
推測の域をでないそうです。

しかもボレスワフ没後(1025年7月以降)のオダのその後は不明、墓所も不明。
いったいどんな生涯を送っていたのやら…

政治の渦に巻き込まれ、人知れず没するなんて…
表舞台では名が残らずとも、個人的にはハッピーな人生を送っていたことを祈ります。

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