王妃が無理なら王の母!
ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ・ドルレアン
サクス=コバーク=ゴータ公子オーガスタス妃
1817〜1907
終わったと思ったら一人残ってました…
ルイ・フィリプとマリー・アマーリエの四女クレマンティーヌ。
三女フランソワーズは2歳で亡くなっています。
13歳の時に父ルイ・フィリプが王に即位したため王女になりました。
当時クレマンティーヌに歴史を教えていたのがジュール・ミシュレという人なのですが
彼は急進的な思想の持ち主で、フランス革命を美化していました。
王女に対して王家を倒した革命を讃美する授業…いいのかね?
後にミシュレはルイ・フィリプの保守傾向を非難しています。
クレマンティーヌは美しくて、将来が期待されていました。
ヨーロッパ各国は彼女の縁談を見守っていましたが
19歳の時に両シチリア王フェルディナンド2世との結婚がささやかれました。
クレマンティーヌとは従兄弟にあたりますね。
姉ルイーズの嫁ぎ先ベルギーではレオポルト1世が
クレマンティーヌとサクス=コバーク=ゴータ家のオーガスタスとの縁談を根回し中でした。
ベルギー王家はできたばかり…フランスとの婚姻でベルギー王家を
強固なものにしようとでも考えていたんでしょうか?
オーガスタス自身は王位継承権は無いようなものでしたが
ベルギーのみならず、ポルトガル、スペイン、ブラジル帝国、メキシコ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国と繋がりがあるという華やかさ!
書ききれないから書かないけどね…
オーガスタスとクレマンティーヌは1843年に結婚しました。
二人は当初オーストリアで暮らすつもりでした。
しかし、オーストリアは、クレマンティーヌはフランス王女として迎えるが
オーガスタスはロイヤルファミリーとして認めないということだったので
フランスで暮らすことにしました。
たしなみがあると言われていたクレマンティーヌでしたが実は野心家。
その上夫より交渉手腕が優れていたらしく、完全にオーガスタスを尻に敷き
子供たちを支配しました。
1848年の2月革命の時には、子供たちは避難させたものの
コンコルドへ取って返し居座って頑張りました。
結局2月24日に王宮を市民に占拠され、ルイ・フィリプは退位しました。
フランス王家はロンドンへ亡命します。
クレマンティーヌはそこで父ルイ・フィリプと再会しました。
敗者の悲しさ… この後のクレマンティーヌの人生は争いの連続でした。
端折ってくけど、まずはオルレアン家が奪われた金銀財宝を取り戻そうと
ナポレオン(3世)と争います。
遺産のかわりに20万フランを要求しましたがあっけなく拒否されました。
とにかく息子を王にしたいと願っていたクレマンティーヌは
お気に入りの三男フェルディナンドをベルギー王にしようと画策しました。
この時クレマンティーヌは戴冠式でかぶせる王冠までデザインしていたらしい…
だけど残念… レオポルド2世の甥アルベール1世に敗れます。
省いたけど、家系図から見れば兄フィリップとレオポルト2世王女ルイーゼの
王子レオポルドの方が王の座に近かったかですよね。
そこで目をつけたのが王が退位したブルガリア。
フェルディナンドを同行してブルガリアに入ると、その富にものを言わせて
ヨーロッパへと繋がる鉄道の建設に400万フランの寄進、学校・病院の建設、
ブルガリア赤十字への莫大な寄付と大枚はたきます。
その甲斐あって、どっちかっていうとフェルディナンドより
クレマンティーヌの方が人気者になってしまったわけなのですが
オーストリアの後押しでフェルディナンドはブルガリア王の座につくことになりました。
だけど…神様の意地悪…
クレマンティーヌは、あんなに夢見ていた息子の即位前年に
インフルエンザで亡くなってしまいました。 90歳でした。
戴冠式、見たかったろう… 再び王冠のデザインもしたかもね。
ルイ・フィリップの後再び帝政で皇帝に就いたナポレオン3世と皇后ウージェニーの間には
皇女はいなかったので、フランス王女編は今回でおしまいです。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
ルイ・フィリプ1世王女 クレマンティーヌ・ドルレアン
サクス=コバーク=ゴータ公子オーガスタス妃
1817〜1907
終わったと思ったら一人残ってました…
ルイ・フィリプとマリー・アマーリエの四女クレマンティーヌ。
三女フランソワーズは2歳で亡くなっています。
13歳の時に父ルイ・フィリプが王に即位したため王女になりました。
当時クレマンティーヌに歴史を教えていたのがジュール・ミシュレという人なのですが
彼は急進的な思想の持ち主で、フランス革命を美化していました。
王女に対して王家を倒した革命を讃美する授業…いいのかね?
後にミシュレはルイ・フィリプの保守傾向を非難しています。
クレマンティーヌは美しくて、将来が期待されていました。
ヨーロッパ各国は彼女の縁談を見守っていましたが
19歳の時に両シチリア王フェルディナンド2世との結婚がささやかれました。
クレマンティーヌとは従兄弟にあたりますね。
姉ルイーズの嫁ぎ先ベルギーではレオポルト1世が
クレマンティーヌとサクス=コバーク=ゴータ家のオーガスタスとの縁談を根回し中でした。
ベルギー王家はできたばかり…フランスとの婚姻でベルギー王家を
強固なものにしようとでも考えていたんでしょうか?
オーガスタス自身は王位継承権は無いようなものでしたが
ベルギーのみならず、ポルトガル、スペイン、ブラジル帝国、メキシコ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国と繋がりがあるという華やかさ!
書ききれないから書かないけどね…
オーガスタスとクレマンティーヌは1843年に結婚しました。
二人は当初オーストリアで暮らすつもりでした。
しかし、オーストリアは、クレマンティーヌはフランス王女として迎えるが
オーガスタスはロイヤルファミリーとして認めないということだったので
フランスで暮らすことにしました。
たしなみがあると言われていたクレマンティーヌでしたが実は野心家。
その上夫より交渉手腕が優れていたらしく、完全にオーガスタスを尻に敷き
子供たちを支配しました。
1848年の2月革命の時には、子供たちは避難させたものの
コンコルドへ取って返し居座って頑張りました。
結局2月24日に王宮を市民に占拠され、ルイ・フィリプは退位しました。
フランス王家はロンドンへ亡命します。
クレマンティーヌはそこで父ルイ・フィリプと再会しました。
敗者の悲しさ… この後のクレマンティーヌの人生は争いの連続でした。
端折ってくけど、まずはオルレアン家が奪われた金銀財宝を取り戻そうと
ナポレオン(3世)と争います。
遺産のかわりに20万フランを要求しましたがあっけなく拒否されました。
とにかく息子を王にしたいと願っていたクレマンティーヌは
お気に入りの三男フェルディナンドをベルギー王にしようと画策しました。
この時クレマンティーヌは戴冠式でかぶせる王冠までデザインしていたらしい…
だけど残念… レオポルド2世の甥アルベール1世に敗れます。
省いたけど、家系図から見れば兄フィリップとレオポルト2世王女ルイーゼの
王子レオポルドの方が王の座に近かったかですよね。
そこで目をつけたのが王が退位したブルガリア。
フェルディナンドを同行してブルガリアに入ると、その富にものを言わせて
ヨーロッパへと繋がる鉄道の建設に400万フランの寄進、学校・病院の建設、
ブルガリア赤十字への莫大な寄付と大枚はたきます。
その甲斐あって、どっちかっていうとフェルディナンドより
クレマンティーヌの方が人気者になってしまったわけなのですが
オーストリアの後押しでフェルディナンドはブルガリア王の座につくことになりました。
だけど…神様の意地悪…
クレマンティーヌは、あんなに夢見ていた息子の即位前年に
インフルエンザで亡くなってしまいました。 90歳でした。
戴冠式、見たかったろう… 再び王冠のデザインもしたかもね。
ルイ・フィリップの後再び帝政で皇帝に就いたナポレオン3世と皇后ウージェニーの間には
皇女はいなかったので、フランス王女編は今回でおしまいです。
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)