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Channel: まりっぺのお気楽読書
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フランス王ルイ15世王女 マリー・アデライード

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禁断の噂を持つ “ 未婚シスターズ ” のドン
ルイ15世王女 マリー・アデライード・ド・フランス

1732〜1800

王妃マリー・レクザンスカがたて続けに3人の王女を生んだもんで
ルイ15世はちょっとふてくされていましたが
1729年に王太子ルイ、1730年に次男フィリプが生まれてご機嫌が直ったようです。

四女マリー・アデライードは、ルイーズ・エリザベートアンリエットとともに
ヴェルサイユで育ちました。
        
アデラードも十代に入ると結婚が取沙汰されました。
しかし「君主じゃない男と結婚するぐらいなら一生独身の方がまし!」と言うアデライードを
ルイ15世が「よしよし」てな感じで許し、結局縁談は決まりませんでした。

どうやらルイ15世は「女ばっかり!」とこぼしていたにもかかわらず
王女たちをお嫁に出すのがいやだったようです。 困ったもんだ
なにせこの後に続く王女たちも皆未婚です。

お気に入りだったアンリエットが亡くなり、ポンパドゥール夫人の健康が衰えはじめると
ルイ15世の愛情は俄然アデライードに向かうようになります。
あ、愛妾は別だからね

しかし、毎朝お茶を飲むためにアデライードの部屋に行ったり遠乗りに連れていったりと
一緒にいる時間が増えた父王と王女はあまりに仲が良く近親相姦の噂がたったほどで
愛妾フランソワーズ・ド・シャリュが生んだとされるルイ・ド・ナルボンヌは
実はアデライードが生んだルイ15世の子だとまで言われました。

アデライードは、ルイ15世の王女たちの中で唯一政治に興味があったと言われています。
まずは兄の王太子ルイ、続いて甥の王太子ルイ(16世)に
自分の考えを吹き込もうとしました。 失敗に終わったようですが…

そしてポンパドゥール夫人をかなり敵視して、父王を通わせないように頑張っていました。
もちろんルイ15世の子供たちは皆ポンパドゥール夫人を嫌ってましたが
アデライードは人一倍激しかったらしい…もし噂が本当だったとすればうなずけますね。

ポンパドゥール夫人が亡くなり、デュ・バリー夫人が登場すると
アデライードの出番もめっきり少なくなります。
アラフォーにさしかかると、アデライード、ヴィクトワール、ソフィーの未婚シスターズは
お互いの部屋に集まり、もっぱら編み物をしながら宮廷の噂話に耽っていました。
めったに正装することはなく、パニエの上にガウンを羽織っただけで過ごしました。
いかんいかん、おしゃれ心を忘れてはダメでないの!

そんなシスターズは王太子ルイの妃マリー・アントワネットの教育係に指名されます。
『ヴェルサイユの薔薇』で、マリー・アントワネットに
デュ・バリー夫人との徹底抗戦を吹き込んでいる三人組がいましたね?
それがこのシスターズだったのでした。

1789年7月、フランス革命勃発!
10月、パリの婦人たちがヴェルサイユ宮殿に向かって行進した日
アデライードは住み慣れた宮殿を後にしました。
ヴェルヴュ城に逃げ込んだ後、何度か拘束される目に遭いながら
1791年にイタリアへ向かいました。

イタリアには姪(兄の王太子ルイの王女)クロチルデや
マリー・アントワネットの姉マリア・カロリーナなどがいましたが
皆革命の余波を恐れていてアデライードはイタリア内を点々とするハメに…
最後に訪れたトリエステで1800年に亡くなりました。

遺体はルイ18世の時代に入ってフランスへ送られサン=ドニに埋葬されました。

各国の王家の権威と安泰に翳りが見え始めた時期とはいえ
「結婚したくない!」というわがままが通って、子分のような妹たちに囲まれ
好き勝手な人生が送れたとは幸せな王女であったといえますね。

晩年はかなり波瀾万丈で、イタリアでは屈辱を味わったかもしれないけど
下々の民の苦しみを踏み台に栄華を誇った58年の人生の後に味わう10年の苦労でしょー?
私はあんまり同情しないわ…

(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)

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