ハンガリー育ちのポーランド王
ポーランド女王/ヴワディスワフ2世妃 ヤドヴィカ
1373~1399/在位 (ポーランド王)1384~1399
(ヴワディスワフ2世妃)1386~1399
ヤドヴィカは王として戴冠していて、彼女のタイトルはポーランド王妃ではなく
ポーランド王ということになります。
しかし、ポーランドでは特に女性が君主になってはけないという決まりはなかったのですが
前例がなかったので、女王(QUEEN)ではなく王(KING)という称号が与えられています。
カジミェシュ3世の姉エルジェピタの権利を得て王になったルドヴィクと
二人目の妃エルジェーベトの末娘ヤドヴィカは、幼年時代をハンガリー宮廷で送りました。
5歳の時にハプスブルク家のオーストリア公子ヴィルヘルムと婚約していたことがあって
1年ほどウィーンの宮廷で過ごしていたことがあるようです。
1382年にルドヴィクが亡くなると、次女マリアが10歳でハンガリー女王になりました。
当時マリアはルクセンブルク家のジグモンドと婚約していていました。
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ポーランド側は、マリアと将来夫になるジグモンドによる二国統治を嫌がり
マリアの妹ヤドヴィカを君主にしたいと考えます。
摂政であるマリアの母エルジェーベトに2年間交渉した末
10歳のヤドヴィカをクラクフに招くことに成功しました。
王になるやいなや、ヤドヴィカの前には求婚者が現れます。
たぶんその前からた~くさん縁談があったとは思うけどね。
中でも婚約していたオーストリア公ヴィルヘルムはクラクフまでやってきて
「もう結婚式をあげちゃおうよ!」という作戦にでますが失敗。
すごすご帰ったヴィルヘルムは、ヤドヴィカの従姉妹(?)でライバルの
ナポリ女王ジョヴァンナ2世と結婚します。
この年、リトアニア大公ヤゲウォがポーランドの貴族とクレヴォ同盟を結びます。
これによってポーランドはリトアニアから土地を返還してもらうことができて
捕虜たちの釈放もしてもらえることになりました。
ヤゲウォ26歳(36歳説あり)、ヤドヴィカ12歳の1386年に結婚しました。
条件はヤドヴィカとの結婚とポーランドの王冠でした。
王になり夫を迎えたとしても、12歳のヤドヴィカには政治的な力は無かったと考えられます。
けれどもヤドヴィカは積極的に政治に参加しようとします。
外交面・文化面に力を入れていたようで、失ったポーランドの領土奪還にも力を注いだり
病院の設立や教会の慈善活動の援助もしてました。
クラクフ・アカデミーは、1817年に王夫婦の名をとってヤゲウォ大学に改名しました。
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こちらには王の貫禄がありますね
1399年、ヤドヴィカは王女エルジェピタを出産しましたが
一ヶ月のうちに母娘が相次いで亡くなり、一緒にヴァヴェル大聖堂に葬られました。
26歳かぁ、若いですね…
国民から親近感も尊敬も集めていた王というのは、当時では稀な気がします。
もっと長生きしていたらポーランドの王位継承は違っていたかもしれません。
ヤドヴィカは亡くなった直後からポーランド国内で聖人として尊ばれていたそうで
奇跡の話しもたくさん残っているそうです。
その中でも有名なのは、成り立ちは諸説ありますが “ ヤドヴィカ・クロス ” と
“ ヤドヴィカの足跡 ” のお話しだそうです。
1980年にはポーランド国内の教会で列福され、1997年に列聖されました。
時の教皇はポーランド生まれのヨハネ・パウロ2世です。
教皇にとってヤドヴィカの列聖はぜひとも成し遂げたい仕事だったでしょうね。
奇跡と言えば、ヤドヴィカの墓所は、17世紀・1887年・1949年に
少なくとも3回発掘されていて、その骨の具合も奇跡的に語られているわけなんだが…
奇跡はいいから、いいかげんそっとしておいてあげましょうよ~
(参考文献 Wikipedia英語版)
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ひとことK-POPコーナー
東京ドームでオニュが歌ってから頭を離れないRainy Blueなんですが、だんなが熱唱するんだよぉ Image may be NSFW.
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やめてほしい!!
そんなわけでこのごろ、だんな歌う→YouTube→また歌う→またYouTube… の繰り返しよ… 疲れるわぁ
ポーランド女王/ヴワディスワフ2世妃 ヤドヴィカ
1373~1399/在位 (ポーランド王)1384~1399
(ヴワディスワフ2世妃)1386~1399
ヤドヴィカは王として戴冠していて、彼女のタイトルはポーランド王妃ではなく
ポーランド王ということになります。
しかし、ポーランドでは特に女性が君主になってはけないという決まりはなかったのですが
前例がなかったので、女王(QUEEN)ではなく王(KING)という称号が与えられています。
カジミェシュ3世の姉エルジェピタの権利を得て王になったルドヴィクと
二人目の妃エルジェーベトの末娘ヤドヴィカは、幼年時代をハンガリー宮廷で送りました。
5歳の時にハプスブルク家のオーストリア公子ヴィルヘルムと婚約していたことがあって
1年ほどウィーンの宮廷で過ごしていたことがあるようです。
1382年にルドヴィクが亡くなると、次女マリアが10歳でハンガリー女王になりました。
当時マリアはルクセンブルク家のジグモンドと婚約していていました。
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ポーランド側は、マリアと将来夫になるジグモンドによる二国統治を嫌がり
マリアの妹ヤドヴィカを君主にしたいと考えます。
摂政であるマリアの母エルジェーベトに2年間交渉した末
10歳のヤドヴィカをクラクフに招くことに成功しました。
王になるやいなや、ヤドヴィカの前には求婚者が現れます。
たぶんその前からた~くさん縁談があったとは思うけどね。
中でも婚約していたオーストリア公ヴィルヘルムはクラクフまでやってきて
「もう結婚式をあげちゃおうよ!」という作戦にでますが失敗。
すごすご帰ったヴィルヘルムは、ヤドヴィカの従姉妹(?)でライバルの
ナポリ女王ジョヴァンナ2世と結婚します。
この年、リトアニア大公ヤゲウォがポーランドの貴族とクレヴォ同盟を結びます。
これによってポーランドはリトアニアから土地を返還してもらうことができて
捕虜たちの釈放もしてもらえることになりました。
ヤゲウォ26歳(36歳説あり)、ヤドヴィカ12歳の1386年に結婚しました。
条件はヤドヴィカとの結婚とポーランドの王冠でした。
王になり夫を迎えたとしても、12歳のヤドヴィカには政治的な力は無かったと考えられます。
けれどもヤドヴィカは積極的に政治に参加しようとします。
外交面・文化面に力を入れていたようで、失ったポーランドの領土奪還にも力を注いだり
病院の設立や教会の慈善活動の援助もしてました。
クラクフ・アカデミーは、1817年に王夫婦の名をとってヤゲウォ大学に改名しました。
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こちらには王の貫禄がありますね
1399年、ヤドヴィカは王女エルジェピタを出産しましたが
一ヶ月のうちに母娘が相次いで亡くなり、一緒にヴァヴェル大聖堂に葬られました。
26歳かぁ、若いですね…
国民から親近感も尊敬も集めていた王というのは、当時では稀な気がします。
もっと長生きしていたらポーランドの王位継承は違っていたかもしれません。
ヤドヴィカは亡くなった直後からポーランド国内で聖人として尊ばれていたそうで
奇跡の話しもたくさん残っているそうです。
その中でも有名なのは、成り立ちは諸説ありますが “ ヤドヴィカ・クロス ” と
“ ヤドヴィカの足跡 ” のお話しだそうです。
1980年にはポーランド国内の教会で列福され、1997年に列聖されました。
時の教皇はポーランド生まれのヨハネ・パウロ2世です。
教皇にとってヤドヴィカの列聖はぜひとも成し遂げたい仕事だったでしょうね。
奇跡と言えば、ヤドヴィカの墓所は、17世紀・1887年・1949年に
少なくとも3回発掘されていて、その骨の具合も奇跡的に語られているわけなんだが…
奇跡はいいから、いいかげんそっとしておいてあげましょうよ~
(参考文献 Wikipedia英語版)
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東京ドームでオニュが歌ってから頭を離れないRainy Blueなんですが、だんなが熱唱するんだよぉ Image may be NSFW.
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そんなわけでこのごろ、だんな歌う→YouTube→また歌う→またYouTube… の繰り返しよ… 疲れるわぁ