肖像画はマネッセ写本のヘンリク4世のところに描かれていた
女生(と思われる画)から、花持って一番目立ってる人を選んでみました
なんだか漠然としている王妃
ヘンリク4世妃 コンスタンツィア・ヴォジスワヴスカ
生年不詳〜1351/在位せず
レシェク2世とグリフィナにお子様がいなくて、後継者でまたまたもめたポーランドで
最高公になったのは、文武両道の誉れ高いヘンリク4世です。
ヘンリク4世は短い生涯の中で2回結婚していて、一人目がコンスタンツィアです。
ただし、コンスタンツィアについては詳細に記されたものが無く
名前もコンスタンツィアではないという意見もあるそうです。
オポーレ公ヴワディスワフ・オドニツァの公女なのですが、姉妹であるマルガリェタ、
あるいはグジェミスワヴァと混同されているという説もあります。
生年月日も不明です。
結婚した年も不明で、おそらく、1277年から1280年の間だとされています。
ヘンリク4世が投獄された1277年が有力だそうですが
一説によると、コンスタンツィアの兄が「妹は若すぎる」という理由で
結婚の延期を申し入れたということで、1265年前後の生まれでは? と推測されています。
だいたい、結婚したかどうかも定かじゃないのだが
オポーレ公が、ヘンリク4世を「義理の息子よ」と呼んでいたという記録があって
それで、オポーレ公の公女と結婚してたのではないか? ということになったそうです。
でもさ、よくお気に入りの若者を「息子よ」とか「娘よ」って言う人いるじゃない?
そのパターンだったらどうするのでしょう? この説台無し…
ちゃんと記録されているということは、本当に義理の息子だったということかしら?
もちろん政略結婚なので、めんどくさいことは省きますけど
ヘンリク4世がドイツのルドルフ1世にしかけた戦争が関係しているようです。
オポーレ公はヘンリク4世支援派でした。
ところが、オポーレ公が1281年か82年に亡くなりました。
これを機にヘンリク4世がコンスタンツィアを遠ざけるようになります。
本当かどうかはわかりませんが、コンスタンツィアが不妊ということも理由になって
早々に離婚されてしまいました。
ちなみに、ヘンリク4世と再婚相手のマティルダの間にも子供はいません。
離婚された年も不明ですが、ヘンリク4世が1287年前後に再婚しているので
それまでには別れていたってことになりますね。
離婚されたのではなく、結婚後しばらくして亡くなったという説もありますが
離婚後は、兄のラチブシュ公ミェシュコ1世からヴォジスワフの領地をもらって
1351年まで暮らしていたとも言われていて… どっちが正しいのでしょうね?
1351年まで生きていた説を信じるとすると、離婚後のコンスタンツィアは
ラチブシュの統治者と見なされていて、かなり尊敬を集めていたらしいです。
言い伝えでは “ ヴォジスワフの貴婦人 ” と呼ばれていたらしく
現在では、コンスタンツィアの名がついた通り・学校・記念樹などがあり
市場にはコンスタンツィア像が建っています。
コンスタンツィアは再婚はせず、1351年に亡くなりました。
死因はペストです。
しかしながら墓所も不明。
1992年にラチブシュの修道院を発掘した際、40歳前後の女性が納められた棺が見つかり
碑文には感染症で亡くなったと書かれていました。
だからって、これがコンスタンツィアかどうかははっきりしていません。
中世初期には、完全に身元不詳の妃も多いし、伝説の粋を出ない妃もたくさんいますが
コンスタンツィアの場合、ある程度まではわかっているのに
「いや、そーじゃない、あーじゃない」という説がついてまわり、なんかモヤモヤしますね。
私としては、離婚後は立派に領土を統治して、尊敬されながら亡くなったという説を
強く推したいですね! 根拠はないけど…
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことゲームコーナー
先日始めた “ ほしの島のにゃんこ ” 買うべきものはほぼ手に入れ、今は土地を増やすのに夢中です
そのためににゃんこを不眠不休で働かせてる状態… なんだか昔の領主の気持がよくわかるっていう…
女生(と思われる画)から、花持って一番目立ってる人を選んでみました
なんだか漠然としている王妃
ヘンリク4世妃 コンスタンツィア・ヴォジスワヴスカ
生年不詳〜1351/在位せず
レシェク2世とグリフィナにお子様がいなくて、後継者でまたまたもめたポーランドで
最高公になったのは、文武両道の誉れ高いヘンリク4世です。
ヘンリク4世は短い生涯の中で2回結婚していて、一人目がコンスタンツィアです。
ただし、コンスタンツィアについては詳細に記されたものが無く
名前もコンスタンツィアではないという意見もあるそうです。
オポーレ公ヴワディスワフ・オドニツァの公女なのですが、姉妹であるマルガリェタ、
あるいはグジェミスワヴァと混同されているという説もあります。
生年月日も不明です。
結婚した年も不明で、おそらく、1277年から1280年の間だとされています。
ヘンリク4世が投獄された1277年が有力だそうですが
一説によると、コンスタンツィアの兄が「妹は若すぎる」という理由で
結婚の延期を申し入れたということで、1265年前後の生まれでは? と推測されています。
だいたい、結婚したかどうかも定かじゃないのだが
オポーレ公が、ヘンリク4世を「義理の息子よ」と呼んでいたという記録があって
それで、オポーレ公の公女と結婚してたのではないか? ということになったそうです。
でもさ、よくお気に入りの若者を「息子よ」とか「娘よ」って言う人いるじゃない?
そのパターンだったらどうするのでしょう? この説台無し…
ちゃんと記録されているということは、本当に義理の息子だったということかしら?
もちろん政略結婚なので、めんどくさいことは省きますけど
ヘンリク4世がドイツのルドルフ1世にしかけた戦争が関係しているようです。
オポーレ公はヘンリク4世支援派でした。
ところが、オポーレ公が1281年か82年に亡くなりました。
これを機にヘンリク4世がコンスタンツィアを遠ざけるようになります。
本当かどうかはわかりませんが、コンスタンツィアが不妊ということも理由になって
早々に離婚されてしまいました。
ちなみに、ヘンリク4世と再婚相手のマティルダの間にも子供はいません。
離婚された年も不明ですが、ヘンリク4世が1287年前後に再婚しているので
それまでには別れていたってことになりますね。
離婚されたのではなく、結婚後しばらくして亡くなったという説もありますが
離婚後は、兄のラチブシュ公ミェシュコ1世からヴォジスワフの領地をもらって
1351年まで暮らしていたとも言われていて… どっちが正しいのでしょうね?
1351年まで生きていた説を信じるとすると、離婚後のコンスタンツィアは
ラチブシュの統治者と見なされていて、かなり尊敬を集めていたらしいです。
言い伝えでは “ ヴォジスワフの貴婦人 ” と呼ばれていたらしく
現在では、コンスタンツィアの名がついた通り・学校・記念樹などがあり
市場にはコンスタンツィア像が建っています。
コンスタンツィアは再婚はせず、1351年に亡くなりました。
死因はペストです。
しかしながら墓所も不明。
1992年にラチブシュの修道院を発掘した際、40歳前後の女性が納められた棺が見つかり
碑文には感染症で亡くなったと書かれていました。
だからって、これがコンスタンツィアかどうかははっきりしていません。
中世初期には、完全に身元不詳の妃も多いし、伝説の粋を出ない妃もたくさんいますが
コンスタンツィアの場合、ある程度まではわかっているのに
「いや、そーじゃない、あーじゃない」という説がついてまわり、なんかモヤモヤしますね。
私としては、離婚後は立派に領土を統治して、尊敬されながら亡くなったという説を
強く推したいですね! 根拠はないけど…
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことゲームコーナー
先日始めた “ ほしの島のにゃんこ ” 買うべきものはほぼ手に入れ、今は土地を増やすのに夢中です
そのためににゃんこを不眠不休で働かせてる状態… なんだか昔の領主の気持がよくわかるっていう…