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Channel: まりっぺのお気楽読書
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ボヘミア王ヴラジスラフ2世妃 ゲルトルーダ

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夫に福をもたらした若妻
ヴラジスラフ2世妃 ゲルトルーダ・バーベンベルスカー

1118〜1150/在位 (公妃)1140〜1150 (王妃)せず

ご無沙汰しておりました。
家庭の事情で今月はなかなかアップできず、マルッと空いてしまいました。
ボヘミア王妃編の続きからいってみます。

お父様ヴラジスラフ1世に、後継者に指名されなかったヴラジスラフは
ボヘミア公になり、後にボヘミア王になりました。

最初の妃はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘ゲルトルーダです。
母はローマ皇帝ハインリヒ4世皇女アグネスで、ドイツ王コンラート3世とは義理の兄妹です。
この結婚は、ブラジスラフにとって願ったり叶ったりでした。
        
プラハ城がブルノ公コンラト2世に包囲されている時、ゲルトルーダは
義理の弟デオポルドの援護で城を守り抜きました。
その時、ブラジスラフはコンラート3世に助けを求めようとしていたらしい。

義理の弟が善い人でよかったよ。

ブラジスラフ2世は、ボヘミアなりのキリスト教を確立しようと模索中でした。
ゲルトルーダは夫を励まし、助けました。
その結果、ブラジスラフは海外から宗教を取り入れ、目指すものを作り上げたそうです。
キリスト教には詳しくないんですが、ロシア正教とかギリシャ正教とかありますよね?
それのチェコ版ということでしょうか?
           
夫を支えたゲルトルーダは、30歳ぐらいで亡くなりました。
王妃にはなっていません。

               
             Jarmily Haldovéさん作ゲルトルーダ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことお相撲コーナー
お相撲にはまったく詳しくなく興味も無いんだが、私がブログを始めた同じ頃に、日馬富士もブログを始めてて
いったいお相撲さんて何を書くんでしょう?と思ってフォローしてた事がありました。 なので、ちょっと悲しいです

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ボヘミア王ヴラジスラフ2世妃 ユディタ

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                Jarmily Haldovéさん作
歴史的な橋に名を残した王妃
ヴラジスラフ2世妃 ユディタ・ドゥリンスカー

1135〜没年不詳/在位 1158〜1172

ブラジスラフ2世が、前妃ゲルトルーダの死から3年後に再婚したのは
チューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユディタです。
ユディタは、ブラジスラフより15〜20歳ぐらい年下で18歳ぐらいでした。

歴史家によれば、ものすごく美しく、知的で品格があり、ラテン語も話せて
政治的な知識も持ち合せていたようです。

結婚の最大の理由は、ユディタの兄チューリンゲン方伯ルートヴィヒ2世の奥さまが
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサの義理の妹にあたるということ。
どんなに “ 親戚の親戚 ” 的に薄い繋がりでも、もっておきたかっのでしょうね。
       
結婚後、2年ぐらいして男の子が誕生しました。
この時ユディタは、二十歳さこそことは思えない世渡り上手ぶりを発揮します。

中世では、母親が子供の名前をつけるのが一般的だったそうなのですが、ユディタは息子に
一族の伝説的な創始者である、プシェミスルという名をつけようと考えました。
(オタカル1世の正式名称は、プシェミスル・オタカル です)
貴族たちや国民たちの♥をつかみそうなアイデアですね!

やはり神聖ローマ皇帝を手に入れる一家の出、女性も帝王学を学ぶのかもしれません。
ブラジスラフの不在中は、君主の代理を務めるほどの手腕だったようです。

そんなユディタなのですが、1158年にブラジスラフが王になった後も
王妃として戴冠したという記録がないんだって!

ブラジスラフ2世の治世中、ヴルタヴァ川の橋の建設が始まりました。
これは中世初の石造りの橋で、ユディタ橋と呼ばれていました。
この橋は1342年に洪水で流され、1357年に神聖ローマ皇帝カール4世が再建
現在はカレル橋として有名です。

夫を支えてきたユディタですが、継承争いでは意見がわかれました。
ユディタはオタカルを強く推しましたが
ブラジスラフは前妻ゲルトルーダとの息子ベジドフを指名しました。
ま、長男ですからしかたないか…

1172年、ヴラジスラフ2世が退位すると、一緒にチューリンゲンへ亡命しました。
ユディタには里帰りになりますね。

2年後、ヴラジスラフはドイツ・ザクセン州のメラーネで亡くなります。
残念なことに、ユディタがいつ、どこで亡くなったのかは知られていませんが
息子オタカルの治世まで生き延び、1210年に75歳で亡くなったという説があります。

1160年頃にユディタがチェコのテプリツェに設立した
ベネディクト派の修道院に埋葬されているのが、後に見つかっています。

ヴラジスラフ2世の王子たちは、どちらもハンガリーの王女たちと結婚してますね。
ハンガリー、よっぽど味方にしときたかったんだろうか?
     
橋の名前にまでなった王妃の没年がわからないとは… 亡命した王一族の悲哀が感じられます。
せめて墓所だけでもわかってよかったですね。
でもヴラジスラフ2世の墓所はプラハのストラホフ修道院で、二人は別々なの。
こちらはヴラジスラフ2世が設立したものです。

(参考文献 沼野充義氏『中欧』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー

行って来ましたよ! 東京ドームの BIGBANG JAPAN DOME TOUR 2017 LAST DANCE
 
ファンミからの    ステージ
1日BIGBANGを楽しんで来ました。 席はアリーナの真ん中後方付近で、サブステが真上を通るとこ! 
4人を近くで見られたよ〜!! スタンドのはしからはしまで一杯の東京ドーム中が大興奮でした
でも最後は号泣… 京セラにもハワイのテソンのイベントにも行けないわたしは、本当に見納めになっちゃうの…?
去り際の「また会えるよ」という言葉がグッときました

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ボヘミア公ベジドフ妃 アルジェビタ

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                Jarmily Haldovéさん作
戦場で旗を振る王妃
ベジドフ妃 アルジェビタ・ウェルスカー

1145〜1189/在位 1172〜1173 1178〜1189

あけましておめでとうございます
今年1年が皆様にとって夢と希望と妄想にあふれた1年でありますように…

ボヘミアの継承問題は混沌を増していきますよぉ
退位・復位の繰り返しで、順番がよくわかんないよーーー!!

とりあえず、父王ヴラジスラフ2世から指名されてボヘミア公になったベジドフ。

ベジドフの妃は、ハンガリー王ゲーザ2世とエウフロジーナの王女アルジェビタです。
1157年か、1159年に結婚しました。

アルジェビタは2回、ベドジフの不在中摂政を務めました。
一度はソビェスラフ(後の2世)からプラハを守ることに成功しています。
ソビェスラフとの関係はこんな感じ
          
この争いの最中、アルジェビタは戦場に現れたらしいよ! それも旗持って!!
白旗じゃないですよ、旗を振って戦士たちを鼓舞したんですよ。
君主の妃みずから… 士気があがりますよね。

1184年には、同じような状況でコンラト(2世)に勝利しました。

コンラトとのつながりはこんな感じ
            
しかし、1189年にはコンラトに降伏しました。
その時に捕らえられて亡くなったのか、その後亡くなったのかはわかりませんが
1189年に45歳ぐらいで亡くなっています。 処刑じゃなければよいのだが…

いくら旗を振って励ましても、こんなに攻めてくるんじゃね… しかも親戚ばっかり。
戦わされる兵士たちもいい迷惑ですよね! 親族会議で決めてほしいよ。

お子様は一男六女ですが、男の子はたぶん成人していません。
成人していたら、今後の一族の争いに加わっていたかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
去年の12月18日にとても悲しい事があって、仕事にはなんとか行って、考えると泣けてくるので仕事に集中して
でもやはり夜になると泣けてきて… という感じで、なにも手につかない年末を送りました
まだ辛くて歌声は聞けないし、映像も見られません
でも新しい年がやってきたし、現実をうけとめていかなくてはね…

ジョンヒョン、6年間、辛い時や悲しい時、支えになってくれてありがとうございました
あなたがくれた歓びは忘れません  ご冥福をお祈りします

ひとこと年越しコーナー

で、本当は行こうかどうしようか迷ったんだけど。せっかく当たったし、旦那さんも楽しみにしてたし…というわけで
今年も東急ジルベスターコンサートで年越ししてきました
『展覧会の絵』のカウントダウンはピタッとキマって気持ちがよかったです 少し前むきになれました

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ボヘミア公ソビェスラフ2世妃 エリシュカ

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                Jarmily Haldovéさん作
どうも前妃とくらべちゃってねぇ・・・
ソビェスラフ2世妃 エリシュカ・ポルスカー

1152?〜1209/在位 1173〜1178

1173年に、一度ベジドフを敗ってボヘミア王になったソビェスラフ2世の妃は
ポーランド公ミェシュコ3世とエルジェビエタの公女エリシュカです。

実はエリシュカは、生年がはっきりしていないばかりか
本当に王女だったのかどうかも定かではないんです。

だけど名前が一緒だからエルジェビエタの娘だと信じられているらしい…
今ツっこみましたよね? 名前みんなおんなじじゃん!! と

1173年に結婚しました。
     
1178年、ベジドフがプラハを包囲した時、エリシュカは城にいて逮捕されました。
けれどもすぐ解放されました。

ソビェスラフは1179年に再度蜂起するんだけれども、ベジドフに完敗します。
夫婦はポーランドではなく、ハンガリーに亡命しました。

1180年にソビェスラフ2世が亡くなるのですが、ポーランドへは帰らず
すぐにラウジッツ辺境伯コンラト2世と再婚しました。
あやしーね… なにかを勘ぐりたくなってしまうわたし…

その後の記録はないのですが、1209年に夫コンラト2世が、エリシュカの義兄
ポーランド大公ヴワディスワフ3世をレブスの戦いで敗っていまして
これは、エリシュカの死に捧げれたものだと言われています。

夫コンラト2世は1210年に死去しました。
エリシュカはドーベルルーク修道院、夫はヴェクセルブルク小修道院に埋葬されています。
なぜかしら? 一緒じゃないんだね。


               
                Jarmily Haldovéさん作
なにもわからない若妻
コンラト2世妃 ヘリチャ・ズ・ヴィッテルスバハ

1160〜1198/在位 1189〜1191

コンラト2世は、ヴラジスラフ2世が一生懸命つながりを求めた
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の引き立てで、まずは初代モラヴィア辺境伯に叙されます。

そして1189年に、フリードリヒ1世と地方貴族たちの後押しでベジドフを敗って
ボヘミア公になりました。

コンラト2世の妃は、プファルツ伯オットー7世の娘ヘリチャです。
           
1176年、16歳ぐらいで、25歳ぐらい年上のコンラトと結婚しました。

コンラトはナポリ包囲中の1191年に亡くなるんですが
その後ヘリチャがどうしていたのかわかりません。
30歳前後なので、再婚しようと思えばじゅうぶんできる年なんですけどね。

子供がいないと記録もないとは… 王妃の人生って寂しいものですね。
1198年に亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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『王妃に別れをつげて』たった二日で世界は変わる

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LES ADUEUX A LA REINE 
2002年 シャンタル・トマ

ヴェルサイユを描いたもの、マリー・アントワネットの生涯を描いたもの、
フランス革命を描いたものは山のようにあって、到底全部は読みきれないですね?

わたしもハナから読破は諦めて、ぼんやり知ってるし… てな感じでやり過ごしてるのですが
この小説は、王妃の朗読係から見た革命前の二日間、という背景が面白そうだったので
読んでみることにしました。

感想なんですけど…
フランス革命がなかったら、ヨーロッパに独裁国家という概念は生まれなかったのかなぁ…
などと思ったりしています。
歴史とか思想とか、よく解んないまま書いてますけどね

たとえばね、1789年、7月15日の夜中に何者かがルイ16世を起こすという
前代未聞の出来事があり、バスティーユがパリ市民たちによって攻撃され陥落した、と
伝えられたというウワサがヴェルサイユ宮殿内に広がります。
貴族たちはもちろん「そんなバカな!」と思うんだけど
それはバスティーユが陥ちたということより、市民たちがなぜそんな事を考えるのか…
ということが理解できないようなのね。

神から選ばれて代々続いている王や貴族たちがいるのに、自分たちで指導者を選ぼうなんて
考えるわけないじゃないか、ということだったみたいです。

けれどもバスティーユ陥落は本当らしいということになり、宮殿内がざわつきはじめます。
そして驚いたことに、まず「宮殿の門は閉めるべきじゃない?」という意見が交わされます。

つまりね、戦争も反乱も予想してなかった王や貴族たちが暮らすヴェルサイユ宮殿は
門を開けっ放しにしていて、町人も、行商人も、物乞いも出入り自由だったんだって!

自分たちは権力で下々の民たちを押さえつけているという意識はないし
まさかそんなことで恨まれるなんて… と思っていたんでしょうね。

その後、君主を引きずり降ろす事ができるんだと知ってしまった各国の民たちは
チャンスを狙い始め、王制を倒して指導者になる人が現れます。
だけど、王や貴族と違って「当たり前」と思ってないから、その座を手放さないように
必死で守りに入りますよね、秘密警察作ったり、密告させたりして。

だから、絶対王政と独裁とは、ちょっと違うもんだったんじゃないのかな?
何言ってるかわからなくなってきたので、これ以上考えるのはやめときますけど…

さて、物語では、ヴェルサイユでは前日まで儀式に乗っ取った日常が送られていて
ルイ16世たちは豪勢で何時間も続く晩餐を食べて、選ばれし貴族たちが侍っていたのに
7月16日には様相が一変します。

ルイ16世は市民たちの前に徒歩で現れ、熱狂で迎えられたことに気を良くして
マリー・アントワネットや弟のアルトワ伯(後のシャルル10世)が
宮殿を発とうと説得しても、ヴェルサイユに残る決心をします。
それどころか、宮殿を警護していた海外の兵士たちも国に帰してしまいました。

王の就寝前の謁見は閑散としたものになり、フランス人の衛兵たちは横柄になります。
召使いたちは呼んでも来ないし、宮殿内で配られたビラには(貴族の)処刑者リストが
書かれていて、その筆頭は、マリー・アントワネットとアルトワ伯でした。

マリー・アントワネットは、お気に入りだった友人たちの部屋を訪ねますが
みな宮殿を発った後でした。
そして、誰よりも愛していたガブリエル・ド・ポリニャックも逃亡を決めました。

主人公のアガート・ラボルトという朗読係補佐の女性は、二日間の宮殿内の人々と
王妃の変化、そして自分自身の変化を驚きを持って見つめていましたが
最終的には王妃の命令で宮殿を後にします。
その命令の内容はふせときますが、一番泣けるシーンかもしれないです。

ストーリー自体は、そんなに驚くべきものでもなんでもないんだけど
窮地に陥った貴族の右往左往ぶりと無力さ、薄情さが興味深い物語でした。

でも自分もそうするなぁ、きっと。
「王妃は自分の意志で残るんだから…」と言い聞かせ、さっさと荷造りをするよね。
だから、逃げ出したガブリエルなども責められませんでした。

ちなみに、王妃に忠誠を示したために惨殺されたとされるランバル公妃は
この物語の中では、お気に入りだったようには描かれていませんでした。

フィクションなのでね…
でも、物語に登場する王妃の小間使い頭のカンパン夫人が後に回想録を出版してます。
荷造りシーンや食事シーンなどはそれを下敷きにしているかもしれないですね。
だとすると、マリー・アントワネットのパーソナリティが
少しは垣間見える貴重な一冊かもしれないです。

以前映画化されたみたいですね?
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



ひとことK-POPコーナー
BIGBANG うたんぷ を手に入れ、さっそくみんなに送りつけたわけなんだが、かなり歌ってくださるので
ビックリしちゃいました  電車の中などでお年寄りやあかちゃんがドッキリしないように気をつけなければ…

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ボヘミア王オタカル1世妃 アデレータ

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王妃の座は降りるもんか!!
オタカル1世妃 アデレータ・マイシェンスカー

1160〜1211/在位 (公妃)1192〜1193、1197〜1198 (王妃)1198〜1199

コンラト2世のあとを継いだのは、ソビェスラフ1世の公子ヴァーツラフ2世でしたが
すぐにオタカル1世にその座を奪われ、ラウジッツで捕らえられて
1192年に亡くなるまで投獄されていました。 未婚かもしれません。

オタカルが継承したのですが、ドイツ方面の争いにクビをつっこみ失墜します。
一瞬、叔父さんにあたるジンドリフがボヘミア公になります。 未婚らしいです。

次に弟のヴラジスラフ3世がボヘミア公になりましたが
1年でオタカルに取って代わられました。
ヘイルヴィダという妃がいましたが、チェコ語が読めず詳細はわかりません。

                
              この方らしいJarmily Haldovéさん作

そして再度オタカル1世がボヘミア公になり、ボヘミア王になります。
オタカル1世妃は、マイセン辺境伯オットー2世の娘アデレータです。
      
二人はオタカルの追放中、1170年に出会っています。
政治的な理由も無いとは言えないが、どうやらアデレータが妊娠しちゃって
結婚を強いられたみたいです。
1178年に結婚するのですが、すぐにヴラチスラフが生まれちゃってます。

1192年にボヘミアへ戻りましたが、1193年には廃位されボヘミアを去ることになります。
アデレータは兄弟のもとに身を寄せ、オタカルはドイツの公爵の傭兵になりました。
この時、アデレータがオタカルに「どこかで働いてよ!」と傭兵になることを
すすめたことから、夫婦は仲違い中でした。

1197年、オタカルはボヘミア公に返り咲き、さらに1198年にボヘミア王になると
1199年、血縁を理由にアデレータとの離婚を決心します。
わたくし、一生懸命探してみたのですが、どこが血縁なのか辿りつけませんでした。
さらにオタカルは、一男三女の子供たちとも縁を切ろうとします。
これはものすごくリスキーですね。 跡取りがいなくなっちゃう。
家族全員が嫌いだったってこと? つまはじき父さんだったのでしょうか?

オタカルはアデレータに離婚を宣言するとすぐに
ハンガリー王ベーラ3世の王女コンスタンチェと再婚しました。
さては離婚前から決まっていたか?
ちなみに、オタカルとコンスタンチェは遠い親族にあたります。

アデレータは1205年に娘のマルケータを連れて、ボヘミアに一時帰国します。
オタカルがマルケータとデンマーク王ヴァルデマー2世との結婚を決めたからで
アデレータはマルケータとボヘミアを発つと、その後は戻りませんでした。

教皇はとっくにオタカルとアデレータの結婚の無効を言い渡していましたが
アデレータはあきらめず、ずっと王妃を名乗って争っていました。
けれども1210年に敗れ、ガックリしてしまったのか1211年にマイセンで亡くなりました。

どうせ返り咲けないなら第二の人生を歩めばよかったのにね。
そんなに王妃のタイトルが惜しかったのでしょうか?
イヤらしい話しになりますが、王の未亡人になると年金がいただけたらしいので
そういうのも関係していたのかしら?

                
               Jarmily Haldovéさん作アデレータ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことハンドメイドコーナー
何年か前、分冊もの ロビ を作っただんなさんが、今回は『ねこあつめ』の羊毛フェルトに挑戦するそうな!!
初回のしろねこさんが上手くできたら定期購読するらしい

これです
作ってみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



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ボヘミア王オタカル1世妃 コンスタンツィエ

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プロフィールに偽りあり?
オタカル1世妃 コンスタンツィエ・ウヘルスカー

1180〜1240/在位 1199〜1130

「血縁があるから」と、前妃アデレータに離婚を言い渡したオタカルですが
同年に再婚したコンスタンツィエはバリッと親族関係にあります。

コンスタンツィエは、ハンガリー王ベーラ3世とアンナ・シャティヨンの王女でした。
兄姉に、ハンガリー王イムレ、アンドラーシュ2世、ビザンツ皇后マルギトがいます。
     
オタカル1世の治世中、コンスタンツィエはオタカルの共同寄贈者として
多くの教会や修道院を寄進したと記録が残っています。

それは良いことなんですが、それ以外がけっこう胡散臭いかんじ?

ある書簡によると、ブジェツラフとオロモウツの解放が認められるようサポートしたと
されているのですが、どうやらこれは偽文書みたいで
同じようなエピソードが聖イシュトヴァーンにあるらしいです。

また、ホドニーンに “ 偉大なるチュートン人(銅像?) ” を立てたってことになってますが
これはねつ造らしい…

どうしてそんな嘘をつきましたかね? 聖人にでもなりたかったのでしょうか?

1930年、オタカル1世が亡くなりました。
1931年、ローマ教皇グレゴリウス9世が、教皇の権威のもと
コンスタンツィエと彼女の持参金を保護下におきました。
中には、ブジェツラフを含む6つの領地も含まれていました。

これは良いことなんだろうか? 悪いことなんだろうか?
言葉通り保護してくれるのかしら? それとも横取りされちゃったってこと?
ちょっとよくわかりません。

コンスタンツィエは、1232年にティシュノフ近郊にポルタ・チェリ修道院を建て
そこの尼僧になりました。
1240年に亡くなり、そのままそこに埋葬されたようです。

ちなみに、オタカル1世は聖ヴィート大聖堂に葬られています。

                
         Jarmily Haldovéさん作コンスタンチェ 上の画の場面かしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
SHINee WORLD THE BEST 2018 -FROM NOW ON- 
京セラドームに行ってきました
スタートから涙が出てラストまで止まりませんでしたが
メンバーたちと一緒に泣ける時間を与えてもらえてよかったと思っています
東京ドームでもきっと泣くと思う… でも5人に「ありがとう」を伝えに行きたいと思います


そしてグリコの看板を撮ったらオーブが写りました
やっぱりジョンも大阪に来ていたんだね… と思えて泣けてきた

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ボヘミア王ヴァーツラフ1世妃 クンフタ

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                Jarmily Haldovéさん作

どさくさでお葬式をあげてもらえず…
ヴァーツラフ1世妃 クンフタ・シュタウフスカー

1202〜1248/在位 1230〜1248

オタカル1世の後、オタカルの叔父さんにあたるブレチスラフ3世(ジンドリフ)が
一瞬ボヘミア公になりました。
この方はプラハで司教をしていたみたいで、未婚のようです。
        

次にオタカルの弟ブラジスラフ3世がボヘミア公になります。
ヘイルヴィダ(?)という妃がいましたが、詳細はわかりません。

                
             この方らしいです Jarmily Haldovéさん作          

で、王位を継いだのはオタカル1世の王子ヴァーツラフ1世でした。

お妃はドイツ王フィリップの王女クンフタでした。
お母さまはビザンツ皇女イリーナで、姉に神聖ローマ皇后ベアトリーチェがいます。

6歳ぐらいの時に父親が殺害され、数ヶ月後に母親が出産で死去します。
その時にはすでにヴァーツラフと婚約していたみたいで
両親の死後すぐにプラハに向かいました。
結婚は、それから16年後…長いあいだ婚約者だったんですね。
        
1230年に王妃になりました。
これまでの王妃同様、いくつか修道院を建てました。

1247年に、後継者である長男ヴワディスワフが亡くなったのですが
その翌年、次男オタカル(2世)が、不満を抱えた貴族たちにかつがれて
ヴァーツラフ1世に反乱をおこしました。
後継者に決まったのに、なぜ待てなかったのかしらね?

クンフタはその反乱の最中、プラハで亡くなりました。
46歳ですね… 病気なのか、息子の反乱にショックを受けてかよくわかりません。
息子に対してどんなアクションをおこしたのか知りたいところですね。

なにせ反乱の最中だったもので、夫も息子も葬儀を行おうとしませんでした。
どちらかが喪主になったとしても、もう片方は出席できないよね? かわいそう…

反乱は、クンフタの死去後、ヴァーツラフ1世が息子を投獄して終わりました。
せめてその後でもいいからお葬式をあげてあげればよかったのにね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと平昌オリンピックコーナー
4年に一度しか見ないような競技が多いのですが、やはり燃えますね! メダルも過去最多だそうでおめでたいですね
でも、まったくスポーツができないわたしから見ると、出るだけでもすごいですよ〜 選手のみなさん
メダルが取れなくて悔しがるのはいいのですけど、落ち込んだりしないでね

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『すばらしい新世界』“世界はひとつ” への簡単ではない道のり

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BRAVE NEW WORLD 
1932年 オルダス・ハクスリー

オルダス・ハクスリーは、短篇を2篇ほど読んだことがあったみたいですが
印象に残っているのは『ジョコンダの微笑み』というお話しだけでした。

で、裏表紙のあらすじを読んで「な、なんて面白そうな!」と思い手にした
『すばらしい新世界』なのでしたが…

すごく興味深い内容ではありましたが、わたしはちょっと好きになれませんでした。
ざっと書いてみるね。

地球は、九年戦争を終えたあと、戦争を放棄し平和に共生する道を選びました。
もはや “ 国 ” という概念はないみたいで、大陸や都市は世界の中の一都市という
認識になっているみたいです。
本当にそうなっていたら素晴らしいことですね!

人々は世の中になんの不満も抱いておらず、仕事の後はデートや映画
スポーツを楽しみ、孤独や哀しみを感じる暇はありません。
進歩した技術のおかげでほとんどの病気は絶滅し、若々しいまま年老いていきます。
夢のような世界ですね! 老けないなんて…

しかしその実態は…

主な舞台は、ロンドン孵化条件づけセンターというところなんですが
このセンターは世界各地にあるようです。

そこで行われているのは “ 人間の製造 ” って感じかな?
子供は身ごもるものではなく、受精卵の段階で上流のアルファ・ベータ
下層のガンマ・デルタ・イプシロンに選別され、ビンに入れられ
各々の階級にふさわしい薬品や刺激を与えられて育てられます。
それだけでなく、仕事にあう体型や体力に仕上げられます。

生まれた後は、あかちゃんの時から睡眠療法で各々の階級にピッタリの
例えば「ガンマでよかった、ベータのように勉強しなくて良いから…」というような
スローガンをたたきこまれます。

家庭や両親というものは存在せず、おぞましく卑猥なものと考えられています。
でも寂しくないのは “ みんなはみんなのもの ” というスローガンのもと
ひとりの人ではなく、たーくさんの人と付き合うから…
一部の方々には嬉しい世界かもしれませんね。

だから、人々は自分の境遇に満足しきっているわけですね。
ちょっと悩みがあれば、ソーマというものを飲めば楽しい気分になれるというわけで
だーれも世の中に疑問を感じず生きています。
だから争いもおこらず、世界はアッパラパー的に平和を謳歌しているのね。

ここまでで長くなっちゃったのであらすじは省くんだけど
やはり「なんかおかしいかも…」と思う人はいるわけです。

間違ってビンの中にアルコールを入れられてしまったと噂される
アルファプラスらしからぬ(背が低くハンサムでない)容姿のバーナード・マルクス

ものすごくアルファプラスらしいモテモテ男のヘルムホルツ・ワトソン

バーナードが “ 野人保護区 ” から連れて来た、文明人の息子らしいジョン

この3人がなにかしでかしてくれるかと思ったんだけどな…
でも皆が幸福な世界なら変えなくてもよいのか…? 判断がつきかねるラストでした。

それにしても、世界から争いをなくし誰もが幸せだ!と思う世界にするためには
こんなにも手間ひまかけなきゃならんのだろうか?

以前、誰だっけ? グレアム・グリーン
『最後の言葉』という短篇を読んで、やはり “ 世界はひとつ ” は
何かの犠牲の上にしか成り立たないのではないかと思った記憶があります。

お互いの精神的安定のために、せめて三軒隣りの国ぐらいまでは仲良くしたいものですけど…

わたしは読み終わって混乱してますが…
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


ボヘミア王オタカル2世妃 マルケータ

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継承のためなら!の歳の差婚
オタカル2世妃 マルケータ・バーベンベルスカー

1204〜1266/在位 1253〜1260

父王ヴァーツラフに対して反乱をおこし、投獄されたオタカルでしたが
1253年にめでたく王に就くことができました… 5年ぐらい待てばよかったのにね。

結婚は2回しているのですが、1回目のお相手は26歳年上
オーストリア公レオポルト6世公女マルケータでした。
すごいね! 26歳年下… 見てるだけでいいや。

実は21歳ぐらいで、ドイツ王ハインリヒ7世と結婚していました。
けれども、オタカル同様、ハインリヒも父親の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対して
反乱をおこし、失敗して1242年に亡くなりました。

マルケータはその後静かに隠遁生活を送っていたのですが
そうもしていられなくなりました。
       
ちょっと入り組んでるから、上手く説明できるかどうか… いきますよ!

マルケータの弟フリードリヒ2世が、1246年に嫡子無しで死去したため
オーストリア公領とシュタイアーマルク公領に対して
マルケータか姪のゲルトルード、どちらの夫も権利を主張できる立場になりました。

そこでヴァーツラフ1世は、長男ヴワディスワフをゲルトルードと結婚させて
この継承争いにくいこんでいきました。
ところが、結婚の翌年の1247年にヴワディスワフが亡くなります。

ゲルトルードの再婚相手バーデン辺境伯ヘルマン6世が1250年に亡くなると
ヴァーツラフ1世の野望は再燃します。
次男オタカルとゲルトルードを結婚させる作戦だったのですが
オタカルが兄の未亡人との結婚を断固拒否しました。

倫理上の問題なのか、兄さんのおさがりなんて!! というプライドだかはわかりませんが
7歳年上のゲルトルードとの結婚を断り、26歳年上のマルケータとの結婚を承諾しました。
       
1252年に結婚はしてみたものの、マルケータはもうすぐ50歳(一説には50歳以上)です。
嫡子が生まれるわけない! ということで、オタカルは
1254年、マルケータの侍女だった愛妾アニェス・クネリングとの間に生まれた息子を
教皇に認めてもらおうとします。

これに失敗すると、オタカルはマルケータとの結婚の失効を訴え、1260年に許されました。
            
でもさ、オーストリア・シュタイアーマルク公領は手放さないのよ、どう思う?
(後にドイツ王ルドルフ1世に奪われます)

結婚を無効にされたマルケータは、オーストリアに帰っていきました。
帰国後は “ ローマ王妃 ” と呼ばれていました。

没年は1266年か1267年で、希望どおり父親が建てたリリエンフェルト修道院の
父の隣に埋葬されました。

静かな生活から引っぱり出しといてなんなのよ!
26歳年上ってことは、最初からわかってたじゃないか!!

マルケータ自身がどう思っていたのか、まったくわからないのが残念ですね。
何度も言うけど、わたしは見てるだけでいいです。 できたら歌って踊ってほしい…

                
               Jarmily Haldovéさん作マルケータ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王オタカル2世妃 クンフタ

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再婚のミステリー
オタカル2世妃 クンフタ・ウヘルスカー

1245〜1285/在位 1261〜1278

1260年に、マルケータとの結婚を無効にしたオタカル2世は
翌年の1261年にとっとと再婚しました。
お相手は、マチョー公ロスチスラフの公女クンフタです。
マルケータより41歳若い花嫁でした。
        
クンフタのお母様は、ハンガリー王ベーラ4世王女アンナで、父方の祖父は
最後のキエフ大公ミハイル2世でした。

ミハイル2世の死後ハンガリーに移りました。
1261年、祖父ベーラ4世とオタカル2世が同盟を結び嫁ぐことになりました。

けれども、この同盟は10年後に破られて、クンフタの叔父イシュトヴァーン(5世)に
攻め込まれました。

オタカル2世は1278年にマルヒフェルトの戦いでドイツ王ルドルフ1世に敗れ亡くなります。
これは、前妃マルケータとの結婚で手に入れた公領をめぐる争いですかね?
その上、ボヘミア王の支配下にあったモラヴィア公領は、ルドルフ1世に制圧されました。

幼王ヴァーツラフ2世の摂政になったクンフタでしたが、コントロールできるのは
プラハ近郊ぐらい… 行く末が不安ですね。

でも大丈夫!
ヴァーツラフは、ルドルフ1世の王女グータとの結婚が決まりましたよ〜
迫りくるハプスブルク家の影…

クンフタは、ヴァーツラフの結婚で肩の荷が降りたのか
同年、ボヘミアの大物政治家ファルケンシュティン卿ザーヴィシュと再婚しました。
ところがですよ、クンフタは数週間後に急死してしまいます。

ザーヴィシュは3年後にハンガリー王イシュトヴァーン5世王女エルジェーベトと
再婚するんだけど… なにか勘ぐりたくなりますよね。

                
               Jarmily Haldovéさん作クンフタ

危なげに見えたヴァーツラフ2世の治世でしたが、ボヘミア王国を維持したばかりか
選挙でポーランド王になり、さらに祖母の系統からハンガリー王にもなりました。

ヴァーツラフ2世は、グータの死後、ポーランド王プシェミスゥ2世王女
エリシュカ・レシュカと再婚しました。

           
       Jarmily Haldovéさん作グータ  Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

その後を継いだのは、ヴァーツラフ2世王子ヴァーツラフ3世で、王妃はヴィオラです。

                 
                Jarmily Haldovéさん作ヴィオラ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王ジンドリフ妃 アンナ

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                Jarmily Haldovéさん作

思い通りにならない妹にイラつく
ジンドリフ妃 アンナ・プシェミスロヴナ

1290〜1313/在位 1307〜1310

ヴァーツラフ3世は若くして亡くなり、王妃ヴィオラとの間に嫡子はいませんでした。

そこでボヘミア王には、ヴァーツラフ2世王女アンナの夫ジンドリフが
選挙で選ばれました。
ジンドリフは、ケンテルン公でオーストリア名はハインリヒです。
1306年にアンナと結婚していました。

もちろん、父王や祖父同様ポーランドの王座もほしいところですよね?
しかし、ポーランドはピアスト家のヴワディスワフ1世が王座を奪い返しました。

そればかりか、ボヘミアの実質的な権力も、ヴァーツラフ2世王妃エリシュカ・レシュカ
再婚した、ハプスブルク家のルドルフにもっていかれてしまいます。
        
この、ハプスブルク家が囲い込んじゃってる感、すごいよね!!

アンナとジンドリフは、ひとまずケンテルンに逃れてチャンスをうかがいます。
ルドルフはボヘミア王になるんですが、1年足らずで亡くなり
ジンドリフは再びボヘミア王になりました。

でも安泰じゃないですよね、なんとかせねば!
そこで二人が目をつけたのは、未婚の妹エリシュカです。
彼女の婚姻で味方を作ろう、というわけでいくつか縁談をもちかけました。

ところが、エリシュカったら言うことを聞きやしない!!
それどころか、名家ルクセンブルク家のヤン(ヨハン)と結婚しました。
ヤンは1310年にボヘミアを占拠し、ボヘミア王になりました。
ジンドリフとアンナはまたまたケンテルンに逃げ帰り、姉妹は訣別しました。
アンナはもともと美しいエリシュカに嫉妬していたみたです。

妹の仕打ちにうちひしがれたのか、アンナは23歳の若さで亡くなりました。
ジンドリフはその後、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のアデレードと再婚、
サヴォイ家のヴェトリーチェと再々婚しました。

ちなみに短命だったルドルフ1世ですが、エリシュカ・レシュカと結婚する前に
フランス王フィリプ3世王女ブランカと結婚していました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王ヤン妃 エリシュカ

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陰謀好きだったらしい
ヤン妃 エリシュカ・プシェミスロヴナ

1292〜1330/在位 1310〜1330

エリシュカは、ジンドリフ妃アンナ同様、ヴァーツラフ2世とグータの王女でした。
両親を早く亡くし、13歳の時には兄ヴァーツラフ3世も暗殺されて、残ったのは四姉妹だけ。

母を亡くしたエリシュカは、父方の伯母にあたるクンフタからすごく影響を受けていて
彼女とともにプラハ城近郊の女史修道院で過ごしました。
アンナ、義母エリシュカ・レシュカ、義理の姉ヴィオラも一緒でした。
       
で、アンナの時にも書いたんだけど、ヴァーツラフ3世が暗殺された時
未婚だったのはエリシュカだけで、ボヘミア王位を狙う各国から熱い視線が注がれました。

ジンドリフとアンナは、自分たちに有利になる縁談をいくつか持ちかけましたが
エリシュカは、1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世皇子ヨハン(ヤン)と結婚しました。
ヤンはボヘミアを制圧したばかりで、姉夫婦たちの痛いところをついたわけです。
18歳の若さで、姉夫婦のウラをかくとは…

王女は生まれましたが、王子が生まれずつらい思いもしたようですが
6年後、後の神聖ローマ皇帝カルロス(4世)も生まれて任務も果たしました。
慈善などに勤しみ大人しくすごしていれば、穏やかな人生が送れたと思うんだけど…

エリシュカは政治好きだったみたいなのね。
それで、ヤンとだんだん意見が食い違っていくようになります。
「わたくしのおかげで王になれたんじゃぁなくて?」なんて思ったのかしら?

1319年、ヤンを退位させてカルロスを即位させようという陰謀が噂されました。
ヤンは首謀者とされる人物を罰しましたが、エリシュカのことも疑っていたのか
子供たちの教育からエリシュカを遠ざけることにしました。

エリシュカはムニェルニーク城に移され、カルロスは投獄された後フランスへ送られました。
母子は二度と会うことはありませんでした。

ボヘミアの王女なのに政治からは遠ざけられ、味方も失ったエリシュカは
バイエルンに渡りました。
なぜバイエルンかしら? 長女マルケータがバイエルン公妃になりますけど、もっと後だし…
1323年に双子の女の子が生まれてるのよね! これは誰の子? ヤンの子?

ボヘミアを出たエリシュカを、ヤンは一切支援しませんでした。
エリシュカはヤンとボヘミア貴族たちへの恨みつらみを隠しませんでした。
もし、当時ネットがあったら、ブログとかTwitterで動画バンバンアップしたりして…
そして呆れられたりして…

1325年、エリシュカは結核にかかりボヘミアに戻りました。
5年間生き延び、1330年に亡くなりました。
離婚はしていなかったので、亡くなるまで王妃のタイトルは持っていました。

三男四女のお子様がいました。
次女ジェトカは、フランス王ジャン2世の妃になっています。

               
              Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王ヤン妃 ベアトリクス

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国民に無視された王妃
ヤン妃 ベアトリクス・ブルボンスカー

1320〜1383/在位1334〜1346

1330年、ヤンの王妃エリシュカが結核で亡くなりました。
ヤンは、それはそれは悲しんだそうです、真偽はともかく。
自分はよそ者で亡くなったのはボヘミアの王女だから、まわりの目も気にしないとね。

ポーズだかどうだか、エリシュカの死後4年間再婚しなかったヤンですが
フランス王フィリプ6世が親交を深めようと再婚をおススメしてきました。
相手はブルボン公ルイ11世の末娘ベアトリクスです。

おススメはいいけど、ベアトリクスはすでに、ターラント公フィリッポと婚約してて
そちらは破棄されてしまいました。
       
16歳で結婚したベアトリクスは、年上の継子カレルの妃ブランカ
お世話してもらうことになりました。
出身が同じフランスだから心強いですね。 でもヴァロア家とブルボン家だけど…

ベアトリクスは、ブランカとやけに比べられちゃってつらかったみたいです。
ブランカ、エピソードがあまりないけど、できた人だったのでしょうか?

ベアトリクスはというと、冷たそうで傲慢で、チェコ語を嫌悪していたということで
国民には不人気でした。
ブランカはその逆だったのかしら?
たしかに、ボヘミア王女だった王妃の後妻というのは、キツい立場かもね。

それにしても肖像画、なんとかならなかったのでしょうか?
不人気でもしかたない雰囲気が充満していますね。
もう少し明るそうなお顔で描いてもらえばよかったものを…

1337年、王子ヴァーツラフが誕生し、その3ヶ月後豪華な戴冠式が行われましたが
市民たちに無視されたらしい…
そのせいか、ベアトリクスは息子を残してプラハを発ち
その後はめったにボヘミアにやって来ることはありませんでした。

1346年にヤンがクレシーの戦いで戦死しました。
ほとんど国にいなかった王妃でしたが、継子カレル1世はベアトリクスに年金を与えました。

ヤンの死後1年ぐらいしてグランシー卿ユーダス2世と再婚しました。
1383年、息子のヴァーツラフより15日長生きして亡くなりました。
パリのジャコバン派の修道院に葬られましたが、今は残っていません。
胸像がパリのサン=ドニ大聖堂にあるそうです。

                
               Jarmily Haldovéさん作ベアトリクス

ヤンの後は長男カレル1世で、後に神聖ローマ皇帝カール4世にもなります。
王妃は、ブランカ・ヴァロア、アンナ・フラツカー、アンナ・スヴィドニカ
エリシュカ・ポメランスカーの四人です。

    
Jarmily Haldovéさん作 左から、ブランカ・アンナ・アンナ・エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ

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死因はなんだって
ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ・バヴォルスカー

1362〜1386/在位 1378〜1386

カレル1世の次男で後を継いだヴァーツラフ4世の妃は
下バイエルン公アルブレヒト1世の公女です。
母マルガレータはヴァーツラフ2世王女マルガリェタを祖母にもちます。
父方の祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ6世です。
       
8歳の時、結婚のためにハーグからプラハに旅立ちました。
ヴァーツラフは9歳でした。

ルクセンブルクとバイエルンの繋がりを強くするための結婚でしたが
ヴァーツラフの最初のお妃候補は、ホーエンツォレルン家の
エリーザベト・ニュルンベルクでした。
しかし、エリーザベトがプファルツ家のルパートと結婚したので
ヨハナと結婚することに。

ちなみに、ドイツ王というのは神聖ローマ皇帝候補みたいなもので
ヴァーツラフもドイツ王になります。
この時代、各名家が陣取り表みたいなものを広げて縁談を考えてたとしか思えないですよね。

二人の結婚生活は16年に及びましたがお子様はいませんでした。
一説によるとヴァーツラフはアルコール依存症気味で、不能だったらしいです。

ヨハナは23〜24歳で亡くなるのですが、言い伝えによると…
ヴァーツラフの猟犬に攻撃されたってことです。

でもさ、独りでフラフラと犬舎っていうの? 猟犬がウロウロしてるところに行くわけないし
なんか臭いません? 猟犬放たれちゃったとかさ…

ヴァーツラフはジェブラーク城内で、それはそれは壮大な葬儀を行いました。
これは本当に悲しんでのことなのか隠蔽孝作か… 最近疑りぶかくなっちゃっていかんね。
葬儀後プラハ城に埋葬されました。
ヴァーツラフはその後、ヨハナの従姉妹のゾフィエと再婚します。

ヴァーツラフは、1400年にドイツ王を廃位されてプファルツ家のルパートにもってかれます。
お嫁さんも王位もとられちゃってね…

                
                Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ

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未亡人になってからEnjoy?
ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ・ヴァボルスカー

1376〜1428/在位 1389〜1419

前妃ヨハナを飼い犬に殺されちゃった(らしい)ヴァーツラフ4世は
ヨハナの従妹にあたるゾフィエと再婚しました。
従姉にフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールがいます。
        
ヨハナの死から2年後、育ての親バイエルン公フリードリヒ1世に連れられて
プラハに向かい、翌年結婚しました。

ゾフィエは狩猟が大好きで、夫婦共通の趣味があったせいか仲は良かったそうです。
ヴァーツラフ4世は愚王として名高かったそうなのですが
一方ゾフィエは経済方面で有能だったらしいです。
もしかしたら影で夫を操っていたかもしれませんね。

1419年、ヴァーツラフ4世が亡くなりました。
相変わらず継承者をねらう人が多数いる中、お子様がいなかったゾフィエは摂政をしながら
義弟ジグムントを支持することでボヘミアからの保護を得ることにしました。

ゾフィエも43歳、故国に返されてもねぇ…
それとも他にボヘミアに残りたい理由でもあったのでしょうか?

めでたく王になったジグムントとゾフィエは契約を交わしました。
ゾフィエは権力は手放しましたが、なぜかジグムントと二人で領地を仕切っていました。
二人はお付き合いしている… というもっぱらのうわさでした。
ジグムントは「ゾフィエはポーランド王ヴワディスワフ2世と再婚する予定だから!」と
言い訳していたようですが、再婚することなく1428年に亡くなりました。
    
旦那さんが亡くなってから、次の王様、例えば弟とか義理の息子なんかと
ウワサになる王妃って多いような気がする… すぐには思い出せないけど。

まぁ、未亡人といってもお若いですからね…

               
              Jarmily Haldovéさん作ゾフィエ

で、噂のお相手ジグムント妃はマリア・ウヘルスカバルボラ・チェリスカでした。       
               
              Jarmily Haldovéさん作バルボラ

その後はハプスブルク家のアルブレヒト、王妃はアルジェビェタ・ルクセンブルスカ
ラジスラフ(未婚)と続いていきます。

ボヘミア王妃編、もうすぐ最終回です。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ボヘミア王イジー妃 クンフタ

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お若いのにしっかり者だったらしい
イジー妃 クンフタ・ゼ・シュテンベルカ

1425〜1449/在位せず

ラジスラフの後は「ハプスブルク家の王なんて許せるか!」ってなわけで
オーストリア軍を敗ったボヘミア貴族の中から王になったポジェブラト家のイジーです。
       
即位前に結婚したのが、ボヘミア貴族のスミル・シュテンベルクの娘クンフタでした。
結婚から3年後の1444年に、19歳にしてポジェブラティに病院を設立。
20世紀初頭までクンフタの名がついていいました。
若者の教育や学校建設、囚人の社会復帰などに尽力し、システムを確立したらしい。

ものすごく立派なお妃様にみえますが、エピソードが少ないですね。
どこかの王家の王女じゃないからでしょうか?

1449年、24歳の誕生日の翌日、双子の出産の後亡くなりました。
お子様は6人で、次女カテリーナはハンガリー王マーチャーシュの妃になりました。



              
いよいよ最終回
イジー妃 ヨハナ・ズ・ロジェミタール

1430〜1475/在位 1458〜1471

クンフタを亡くしたイジーは翌年、ヨハナと再婚しました。
       
20歳のヨハナは、イジーをものすごくサポートし、国事にも打ち込みました。
けれども子供が生まれてからは母親の役割を優先したようです。

1470年、義理の娘カテリーナの嫁ぎ先だったハンガリーのマーチャーシュが攻めてきました。
ヨハナはチェコ軍を率いたそうですよ!
たぶんイジーも戦いに明け暮れていたと思うので、夫が不在の時はわたくしが!と
奮闘していたのでしょうね。

1971年、イジーが死去しました。
ヨハナは、ボヘミア王の未亡人が代々隠遁してきたムニェルニークに移り
1475年に亡くなりました。

死後は、庶民の教会に葬ってほしい、あるいは、聖ヴィトゥス教会のイジーの隣がいい…と
希望していたそうですが、どこに埋葬されたんでしょうね?

ヨハナの葬儀の喪主は息子のザクセン公ヴィルヘルム3世ではなくて
次の王になるハンガリー王ウラースロー2世でした。
一応イジー支持派から選ばれて王になったようなのですが、他所者なので点数稼がねばね!

             
            Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

この後ボヘミア王位はヤゲロン家、そしていよいよハプスブルク家へ…
続きはそちらからどうぞ

(参考文献 Wikipedia英語版)

スペイン王フェリペ4世愛妾 マリア

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熱しやすく冷めやすい…にふりまわされた一生
マリア・イネス・カルデロン

1611〜1646/愛妾 1627〜1629

ボヘミア王妃編が終って、後のことをなんにも考えてませんでした… というわけで
寵姫・愛妾シリーズいってみます。

どこの国にも恋多き王様はいるものですね。
情熱的な印象を受けるスペインの王室ではフェリペ4世が有名です。

とにかく好きになったらまっしぐら、手に入るものは拒まずという感じで
情事を繰り返していたらしいのですが、一番有名なのがマリア・カルデロンです。
ラ・カルデローナという名前で女優をしていました。

なぜ彼女が有名かというと、お子様はたくさんできたんだけど、なぜか王子が生まれない
あるいは長生きしなくて後継ぎが定まらないスペイン王家に
ファン・ホセという立派な男子をもたらしたからということでしょうか?
それが後々混乱を呼ぶのですが…

スペイン語がわかればたぶん書いてあるのでしょうけど、両親のことはわかりません。
16歳の時には女優として舞台に立っていたということです。

二人の出会いには諸説ありますが、コラル・デ・ラ・クルスという劇場での
デビュー公演でフェリペが見初めたという説と、旧王宮に招いた劇団にいたマリアに
フェリペが言いよった、という説が有力みたいです。

二人はすぐに恋に落ちたということなのですが、実はマリアにはすでに夫がいまして
その上、妻を亡くしたメディナ公ラミロ・ペレス・ゴンザレスと愛し合っていました。
     
すったもんだの末、フェリペはメディナ公を追放し、マリアに女優をやめさせ
とうとうマドリード宮殿で暮らすことを承諾させました。
(メディナ公は当時のスペインの有力者の娘婿でした。
 追放にはもしかしたら政治的な理由もあったかもしれませんね)

ここからはしょうるけど…
決闘まがいの事件や恋敵の追放までして、なかば強制的にマリアを手に入れたフェリペは
1629年にマリアが男の子を生むと、宮殿から追い出すことにしました。
息子のファン・ホセは、どうやらメディナ公の子供だというウワサもたっていたようです。
マリアはいやがったようですが、結局二人の関係は終わりました。

マリアはその後も女優を続けていましたが、夫とはどうなったのか
メディナ公とはどうなったのか、詳しいことはわかりません。

1642年、マリアは修道院行きを強制されました。(本人が熱望してという説もあります)
この年になにがあったかしら?

王妃イサベル・デ・ボルボーンが亡くなるのも
マリアナ・デ・アウストリアとの再婚もまだ先だし…
息子ファン・ホセの台頭はもっともっと後だし…

いずれにしてもマリアはサン・ファン・バウティスタの修道院で尼僧になり
翌年に修道院長になりました。

たった2年のお付き合いで王と別れて13年、もうほっといてあげたらどうか?
権力者に気に入られるというのも、ただただラッキーというわけではなさそうですね。

(参考文献 佐竹謙一氏『浮気な国王フェリペ四世の宮廷生活』 Wikipedia英語版)

だからって浮気のことばかりではない真面目な一冊です
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね




ひとことK-POPコーナー



잘 돌아왔어요 SHINee 앞으로도 사랑해요 SHINee


スコットランド王ジェイムズ4世愛妾 ジャネット

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とても長いおつきあいだった
アンガス伯アーチボルト・ダグラス夫人 ジャネット・ケネディ

1480〜1545/愛妾 1497〜

スコットランド王ジェイムズ4世は結婚前も結婚後も、たくさんの恋人がいたそうです。

イングランドのヘンリー8世は数多くの愛人を手近なところで選んでいたような印象が
ありますが、同年代のジェイムズ4世も近場で見つけていたみたいです。

まずはジャネット・ケネディです。
上のポートレートは本の表紙ですね? スコットランドでは有名なのでしょうか?

ケネディ家というのはスコットランド由来だと聞いたことがありましたが
ジャネットは名家ケネディ卿ジョンの娘さんでした。
何代か遡るとロバート3世に繋がっています。
       
母のエリザベスは、初代ハントリー伯アレグザンダー・ゴードンの娘です。

なんだかこの当時、スコットランドはこのゴードン家系と
アンガス伯とかダグラス伯のダグラス家系がワラワラいる印象を受けています。

で、ジャネットは、17歳ぐらいでアンガス伯アーチボルト・ダグラスの愛妾になります。
(13歳ぐらいで結婚した説があります。 相手はゴードン家系の方らしい)
それで宮廷でジェイムズ4世の目にとまり、愛妾になったってことなんですが…

アンガス伯の愛妾になって、けっこうすぐにジェイムズ4世にのりかえているのよね。
いくら家臣とはいえ、自分の可愛い人をもってかれちゃうというのはどうなの?
アンガス伯は数年前にジェイムズ4世に謀反をおこそうとしたことがあります。
いくら許してもらえて忠誠を誓ったからってねぇ…

ジェイムズ4世の数ある愛妾の中で。ジャネットが一番長く続いた相手で
マーガレット・チューダーとの結婚後も続いていたと言われています。
お子様も三人生まれていて、そのうちのひとりが初代マリー伯になりました。

ジャネットは、ジェイムズ4世の愛妾をしながら他にも二人の男性と付き合っていて
そのうちのひとり、初代ボスウェル卿ジョン・ラムゼイと1505年に結婚しました。
夫は1513年にフロドゥンの戦いで亡くなるのですが、ジェイムズ4世も
もう一人の恋人もフロドゥンの戦いで亡くなっています。
しかも同じ年にアーチボルト・ダグラスも亡くなりました。

後ろ盾が一気に… その後の詳しいことはわかりませんが
認知してもらった子供もいたし、まだ35歳前後だから再婚したかもね。

       
家系図が楽しかったので…
モートン伯ジェイムズ・ダグラス夫人 マリオン・ボイド

生没年不詳/愛妾 1490〜

マリオン・ボイドはなにもエピソードがないのですが、家系図が楽しかったので…
アンガス伯アーチボルト・ダグラスの二人目の奥さんの姪にあたります。

ジェイムズ4世との間には二人子供がいて、長男アレグザンダーは
セント・アンドルーズ大司教になり、フロドゥンの戦いで亡くなりました。
         

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことワールドカップコーナー
勝つとはね〜! お仕事が休みだったのでオンタイムで観てまして大興奮でしたよぉ!!
今回はフェルナンド・トーレスが出てないので日本一筋でいこうと思ってますけど
ステキな選手を見つけたらそちらも応援しちゃうかも…  ところでトーレスが鳥栖に来るって本当ですの??

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『なんでもない一日』ローリー大活躍

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THE SMOKING ROOM AND OTHER STORIES:A COLLECTION 
シャーリィ・ジャクスン

まだ長篇を読む勇気は出ないんだが『くじ』が面白かったので手を出してみました。

なんでもシャーリィ・ジャクスン没後に、息子さんと娘さんが納屋で見つけた
未発表原稿や、単行本未収載など54篇をおさめてアメリカで出版された
短篇集『Just on Ordinary Day』から、30篇を選び出したものらしいです。

未発表ということは本人が気に入っていなかったということかしら?
それとも、若くして亡くなっているので短篇集を編纂する時間がなかったのかしら?
いすれにしても『くじ』と比較しても遜色を感じませんでした。

30篇のお話しは、ものすごーくざっくり3パターンにわけることができると思います。
ちょっと背筋が寒い感じの恐ろしさを孕んだストーリー。
日常的な人々の会話や行動が、読み進むにつれてもやもやもや…としてくるストーリー。
(ブラックめな)ユーモアを描いたストーリー。

印象的だったお話しをいくつかご紹介しますね。

『悪の可能性(The Possibility of Evil)/1966年』
祖父の代から町で暮らしているストレンジワース家の、71歳になるミス・アデラは
町の人々に目を配り、人々からも一目おかれている。
その日も買物に出かけ人々と会話を交わし、帰宅するといつものように手紙を書き始めた。

ミス・アデラ… すごく立派な婦人なんですよ、見習いたいです、と言いたいところですが
善行がいきすぎて困った人になってしまってます。
こういう人はわりといそうな気がするけどね…

『レディとの旅(Journey with a Lady)/1952年』
心配性の母を振り切り、ひとりで列車に乗っておじいちゃんの家に向かう9歳のジョセフ。
せっかくの旅が、隣に座った若い女性のせいで台無し… と思っていたら
列車に警官が乗り込んで来た。

内容はありがちですぐ展開が見えてくるんですけど、面白かったなぁ。
ジョセフと女性の会話がね、 “ どっかで読んだ感 ” を補ってあまりある、って感じかしら。
そして爽快な読後感… 褒められた話しじゃないんですけれどもね。

『車のせいかも(Maybe It was the Car)』
いろいろな事が原因かもしれないが、夫の生徒が言った一言も気にかかり
車に乗ると40マイルほど走り、コロニアル風のホテルに泊まった。
翌日ホテルを出ると、町外れで売りに出されている田舎家に目をとめた。

結局奥さんは一泊して家に帰るんですけど、どうやら家族は慣れっこみたいです。
主人公は作家ということで、もしかしたら本人たちがモデルになってたりするのかな?

他にいくつか印象に残っているお話しがあるのですが、どう説明してよいのやら…
とにかく “ 延々と ” というイメージのストーリーで、例えばね
『メルヴィル夫人の買い物(Mrs.Melville Makes Purchase)』というのは
クレーマーっぽい夫人が百貨店でずーっとイライラさせられて文句タラタラ、ていうのを
『S・B・フェアチャイルドの思い出(My Recollection of S.B.Fairchild)』は
買い物した商品が不良品で、代金払わん! 代金払え!! というのを
なんのひねりもなく書き続けているんですよ、最後はオチるけどね。

つまらなそうでしょ? それが面白いんですよね。
リアルバラエティで誰かを追っかけてる感じかなぁ? 
でも映像にしたらつまらない気もしますけど… 不思議なんだけど読むと面白い。

それから最後の方は、ローリーという少年が大活躍です、あまり良くない感じで。
ローリーというのは、作者の息子さん(ローレンス)と同じ名前なのよね。
思春期の息子を抱えたママの不安と不満を見事に表しているんだろうか?

いろいろな意味で読み応えがある一冊でした。

私が勝手に描いてたシャーリー・ジャクスンのイメージをぶち壊す!
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



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