肖像画が無いので義母マリア・アンティオキア像
異国の地でたらい回し
ルイ7世王女 アニェス・ド・フランス
ビザンツ皇帝アレクシオス2世皇后/ビザンツ皇帝アンドロニコス1世皇后
テオドール・ブラナス夫人
1171〜1204/在位 (アレクシオス2世皇后)1180
(アンドロニコス1世皇后)1183〜1185
ルイ7世の末娘アニェスの母親は3人目の妃アデール・ド・シャンパーニュです。
アニェスは、ビザンツ皇帝マヌエルの皇太子アレクシオス(2世)に嫁ぐため
7歳の時にフランスを出て、8歳の時にコンスタンティノープルに到着しました。
幼い娘を送り出すルイ7世の親心からものすごく飾りたてられていたそうです。
同じ頃、異母姉のアデールもイングランドに送り出されました。
二人はその後顔を合わせることが無かったと考えられています。
マヌエル1世はイタリア奪回・古代ローマ帝国再興という夢を抱いていて
“ 神聖ローマ帝国 ” なんてぇ帝国があることが許せませんでした。
そこで神聖ローマへの対抗策としてフランスと手を結ぶことに…
ルイ7世もビザンツ帝国の華やかさは、十字軍の際に訪れて知っていたので
アニェスを嫁がせることに決めました。
アニェスの歓迎式典は豪華絢爛でビザンツ帝国史上最も華やかなものだったそうです。
ひとくち情報
当時の結婚事情では、本当は8歳で結婚しちゃいけなかったそうです。 でも10歳からは良かったらしい…
姉のアデールは教育のために海を渡ってますが、アニェスは到着して半年ぐらいで結婚式をあげたばかりか
“ 完全に ” 結婚を成し遂げたっていうことです。 床入りをしたということか? 10歳と8歳で…
アニェスはコンスタンティノープルの美しさときらびやかさに歓び
幸せなスタートをきりました。
名前はアンナに改名されました。
しかし、幸福は長くは続きませんでした。
結婚式の半年後、ビザンツ帝国最後の栄華を担ったマヌエル1世が亡くなりました。
アニェスの夫アレクシオスが即位しますが10歳ですものね。
実権は摂政であるマヌエル1世皇后マリア・アンティオキアが握っていました。
ま、それはいいんだけどさ… 幼い王を抱えたお母様摂政は政敵に狙われ易いものです。
まずは、摂政の座を狙って、アレクシオス2世の異母姉マリアが暗躍しました。
これは事なきを得たんですが、続いてマヌエル1世の従兄弟アンドロニコスが
「待ってました!」と反乱をおこしました。
1182年、アンドロニコスは皇太后マリアを失脚させて摂政につきます。
そして異母姉マリア夫婦を殺害、その後皇太后マリアを処刑しました。
もうアレクシオス2世の運命は決まったようなものです。
アンドロニコスは、1183年に共同皇帝になるとすぐにアレクシオスを殺害して
単独で皇帝の座に就きました。
古代ローマでもあったような気がするんですけど、ビザンツ帝国でも
無理くり皇帝になった人が、前皇帝の皇后と結婚して地位をかためることがあったようです。
しかしアニェスは12歳、アンドロニコスは65歳ぐらい… さすがに躊躇したようで
息子のマヌエルと結婚させようとしました。
ここらへんは少し見直した… ルイ15世だったら躊躇しないわね。
この縁談を息子マヌエルが拒否したため、アンドロニコスは “ しかたなく ”
アニェスと結婚することにしたようです。
ちなみに、アンドロニコス1世は二人の姪や皇太后マリアの姉妹などを愛妾にしてました。
こんな再婚、ひどすぎる!
短い間とはいえ夫婦として過ごし、少し愛も感じていた夫を殺した(しかも自ら手を下した)
相手(しかもすげぇ年上)と結婚しなきゃならないなんて
この結婚は内外から非難されましたし、アニェスも泣き暮らしたようなんですが
実家のフランスはなんら抗議しなかったらしい… フィリプ2世は実の兄なのに…
フィリプ2世は十字軍に参加したときもコンスタンティノープル素通りで
アニェスを訪ねることはありませんでした。
ハンガリー王妃になっていたマルグリットも巡礼の時にビザンツを通りましたが
アニェスには会わなかった様子… こちらは異母姉だからなぁ… でもせっかく来たのにさぁ…
1185年、アンドロニコス1世は市民の暴動に遭って失脚します。
なんでもアニェスだけでなく愛妾も連れて逃げたそうで、すぐに捕らえられ
市民のリンチを受けて殺されました。
フランス王女のアニェスはリンチから免れ、アンドロニコスの財産が少し与えられましたが
その後の消息ははっきりしていません。
1193年にはテオドシウス・ブラナスの恋人になっていました。
どうやらそれまでブラナス家で養ってもらっていたみたいです。
その後のアニェスはブラナス夫人として扱われていましたが
財産の件があって正式な結婚はしないまま時が過ぎていきました。
1204年、十字軍によるコンスタンティノープル陥落の後
アニェスは元ビザンツ皇后として、再びヨーロッパ貴族から注目を集める存在になりました。
けれどもアニェスはフランス語を忘れてしまっていて通訳を介してしか話せず
次第に評判を落としていきました。
でもこの年にやっと、アニェスとブラナスは正式に結婚しています。
遠い記憶にしかないヨーロッパの貴族たちの評判なんかより、
愛する人とちゃんと結婚できて、アニェスは幸せだったんじゃないでしょうかね?
ビザンツ帝国は各国から覇権を争われ、いろいろな民族の皇帝が現れてわやくちゃになり
テオドシウスは国内で一時期裏切り者よばわりされたりするんですけど
1219年以降の消息は不明です。
アニェスについても1204年まったく記録が無いのですが1219年以降まで
生存していたようです。
すごく波瀾万丈な一生だったわりに最期がはっきりしないとは…
ブラナス家は軍人としては名門で、父親も英雄となった人らしいのですが
やはり皇后じゃないと記録に残らないか…
せめて立派な墓所に葬られていることを願います。
(参考文献 井上浩一氏『ビザンツ皇妃列伝』 Wikipedia英語版)
異国の地でたらい回し
ルイ7世王女 アニェス・ド・フランス
ビザンツ皇帝アレクシオス2世皇后/ビザンツ皇帝アンドロニコス1世皇后
テオドール・ブラナス夫人
1171〜1204/在位 (アレクシオス2世皇后)1180
(アンドロニコス1世皇后)1183〜1185
ルイ7世の末娘アニェスの母親は3人目の妃アデール・ド・シャンパーニュです。
アニェスは、ビザンツ皇帝マヌエルの皇太子アレクシオス(2世)に嫁ぐため
7歳の時にフランスを出て、8歳の時にコンスタンティノープルに到着しました。
幼い娘を送り出すルイ7世の親心からものすごく飾りたてられていたそうです。
同じ頃、異母姉のアデールもイングランドに送り出されました。
二人はその後顔を合わせることが無かったと考えられています。
マヌエル1世はイタリア奪回・古代ローマ帝国再興という夢を抱いていて
“ 神聖ローマ帝国 ” なんてぇ帝国があることが許せませんでした。
そこで神聖ローマへの対抗策としてフランスと手を結ぶことに…
ルイ7世もビザンツ帝国の華やかさは、十字軍の際に訪れて知っていたので
アニェスを嫁がせることに決めました。
アニェスの歓迎式典は豪華絢爛でビザンツ帝国史上最も華やかなものだったそうです。
ひとくち情報
当時の結婚事情では、本当は8歳で結婚しちゃいけなかったそうです。 でも10歳からは良かったらしい…
姉のアデールは教育のために海を渡ってますが、アニェスは到着して半年ぐらいで結婚式をあげたばかりか
“ 完全に ” 結婚を成し遂げたっていうことです。 床入りをしたということか? 10歳と8歳で…
アニェスはコンスタンティノープルの美しさときらびやかさに歓び
幸せなスタートをきりました。
名前はアンナに改名されました。
しかし、幸福は長くは続きませんでした。
結婚式の半年後、ビザンツ帝国最後の栄華を担ったマヌエル1世が亡くなりました。
アニェスの夫アレクシオスが即位しますが10歳ですものね。
実権は摂政であるマヌエル1世皇后マリア・アンティオキアが握っていました。
ま、それはいいんだけどさ… 幼い王を抱えたお母様摂政は政敵に狙われ易いものです。
まずは、摂政の座を狙って、アレクシオス2世の異母姉マリアが暗躍しました。
これは事なきを得たんですが、続いてマヌエル1世の従兄弟アンドロニコスが
「待ってました!」と反乱をおこしました。
1182年、アンドロニコスは皇太后マリアを失脚させて摂政につきます。
そして異母姉マリア夫婦を殺害、その後皇太后マリアを処刑しました。
もうアレクシオス2世の運命は決まったようなものです。
アンドロニコスは、1183年に共同皇帝になるとすぐにアレクシオスを殺害して
単独で皇帝の座に就きました。
古代ローマでもあったような気がするんですけど、ビザンツ帝国でも
無理くり皇帝になった人が、前皇帝の皇后と結婚して地位をかためることがあったようです。
しかしアニェスは12歳、アンドロニコスは65歳ぐらい… さすがに躊躇したようで
息子のマヌエルと結婚させようとしました。
ここらへんは少し見直した… ルイ15世だったら躊躇しないわね。
この縁談を息子マヌエルが拒否したため、アンドロニコスは “ しかたなく ”
アニェスと結婚することにしたようです。
ちなみに、アンドロニコス1世は二人の姪や皇太后マリアの姉妹などを愛妾にしてました。
こんな再婚、ひどすぎる!
短い間とはいえ夫婦として過ごし、少し愛も感じていた夫を殺した(しかも自ら手を下した)
相手(しかもすげぇ年上)と結婚しなきゃならないなんて
この結婚は内外から非難されましたし、アニェスも泣き暮らしたようなんですが
実家のフランスはなんら抗議しなかったらしい… フィリプ2世は実の兄なのに…
フィリプ2世は十字軍に参加したときもコンスタンティノープル素通りで
アニェスを訪ねることはありませんでした。
ハンガリー王妃になっていたマルグリットも巡礼の時にビザンツを通りましたが
アニェスには会わなかった様子… こちらは異母姉だからなぁ… でもせっかく来たのにさぁ…
1185年、アンドロニコス1世は市民の暴動に遭って失脚します。
なんでもアニェスだけでなく愛妾も連れて逃げたそうで、すぐに捕らえられ
市民のリンチを受けて殺されました。
フランス王女のアニェスはリンチから免れ、アンドロニコスの財産が少し与えられましたが
その後の消息ははっきりしていません。
1193年にはテオドシウス・ブラナスの恋人になっていました。
どうやらそれまでブラナス家で養ってもらっていたみたいです。
その後のアニェスはブラナス夫人として扱われていましたが
財産の件があって正式な結婚はしないまま時が過ぎていきました。
1204年、十字軍によるコンスタンティノープル陥落の後
アニェスは元ビザンツ皇后として、再びヨーロッパ貴族から注目を集める存在になりました。
けれどもアニェスはフランス語を忘れてしまっていて通訳を介してしか話せず
次第に評判を落としていきました。
でもこの年にやっと、アニェスとブラナスは正式に結婚しています。
遠い記憶にしかないヨーロッパの貴族たちの評判なんかより、
愛する人とちゃんと結婚できて、アニェスは幸せだったんじゃないでしょうかね?
ビザンツ帝国は各国から覇権を争われ、いろいろな民族の皇帝が現れてわやくちゃになり
テオドシウスは国内で一時期裏切り者よばわりされたりするんですけど
1219年以降の消息は不明です。
アニェスについても1204年まったく記録が無いのですが1219年以降まで
生存していたようです。
すごく波瀾万丈な一生だったわりに最期がはっきりしないとは…
ブラナス家は軍人としては名門で、父親も英雄となった人らしいのですが
やはり皇后じゃないと記録に残らないか…
せめて立派な墓所に葬られていることを願います。
(参考文献 井上浩一氏『ビザンツ皇妃列伝』 Wikipedia英語版)