夫に再婚相手を指名されるってどうよ?
フィリプ1世王女 セシル・ド・フランス
ガラリヤ公タンクレッド妃/ポンス・ド・トリポリ夫人
1097〜1145
フィリプ1世とベルトラド・ド・モンフォールの王女セシルとタンクレッドの縁談は
タンクレッドの叔父にあたるアンティオキア公ボエモン1世が
フランス宮廷を訪問中に持ち上がりました。
たぶん異母姉コンスタンスの縁談と同時じゃないでしょうかね?
なんと! 9歳 でアンティオキアに嫁ぎました。
お相手のタンクレッドは20歳ぐらい年上です。
タンクレッドはアンティオキア公国建国に携わった人で
ボエモン1世が捕虜になったり、ビザンツの臣下になって
アプリア(イタリア)で暮らしていた間、摂政として実権を握っていた人でした。
タンクレッドはボエモン1世が亡くなった翌年の1112年に亡くなったのですが
その前に妻のセシルとトリポリ伯ポンスを婚約させて持参金に領地まで与えています。
若い(15歳!)未亡人を不憫に思ってのことでしょうか?
それともアンティオキアの安泰を願ってのことでしょうかね?
なんたってボエモン2世は4歳ですから、後ろ盾を増やしておきたかったのかもしれません。
アンティオキアやイェルサレム、ニカイアなどは
キリスト教国が十字軍遠征の際に建国した国です。
気を抜いてるとトルコとかビザンツ帝国に狙われてしまうのでね。
二人が暮らしていたトリポリ(リビア)も同じような境遇で
1133年には夫ポンスがイスラム教国軍に包囲されてしまいました。
この時セシルは異父兄イェルサレム王フルク5世に助けを求めました。
一時は包囲が解かれたものの、4年後に再び包囲されポンスは亡くなります。
セシルは1145年に亡くなり聖墳墓教会(イェルサレム)に葬られました。
国内旅行さえままならない時代に、文化も気候も風景も全く違う国へ、
しかも二度と帰って来れる見込みがなさそうな状況で、しかも9歳で嫁ぐって
想像しただけでものすごく可哀想…
王女の人生って、古い時代にいけばいくほど過酷なような気がしてます。
影は薄いが家系図は賑やか
ルイ6世王女 コンスタンス・ド・フランス
ブローニュ伯ウスタシュ4世夫人/トゥールーズ伯レーモン5世夫人
1124〜1176
ルイ6世とアデル・ド・サヴォワには8人のお子様が生まれていますが
王女はコンスタンスひとりでだけです。
18歳でイングランド王スティーヴンの王子ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚しました。
ウスタシュは1153年に突然亡くなってしまいまして
翌年、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚しました。
子供は4人生まれたんですが、1165年に血縁関係が近すぎるという理由で
教会から離婚を宣言されてしまいました。
近いったってさぁ〜、結婚から12年もたって言われましても…って気がしない?
ちなみにレーモンはコンスタンスより10歳年下なんですよね。
愛妾がいたようで1192年に娘が生まれてます。
当時の教会の「血縁によるうんぬんかんぬん…」という離婚理由は
けっこういい加減なのよね、いとこ同士とかおじと姪の結婚なんか腐るほどあるし。
権力とか寄付金とかに、かなり左右されていたんじゃないかと… (ひとり言)
コンスタンスは1176年に亡くなりました。
(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
フィリプ1世王女 セシル・ド・フランス
ガラリヤ公タンクレッド妃/ポンス・ド・トリポリ夫人
1097〜1145
フィリプ1世とベルトラド・ド・モンフォールの王女セシルとタンクレッドの縁談は
タンクレッドの叔父にあたるアンティオキア公ボエモン1世が
フランス宮廷を訪問中に持ち上がりました。
たぶん異母姉コンスタンスの縁談と同時じゃないでしょうかね?
なんと! 9歳 でアンティオキアに嫁ぎました。
お相手のタンクレッドは20歳ぐらい年上です。
タンクレッドはアンティオキア公国建国に携わった人で
ボエモン1世が捕虜になったり、ビザンツの臣下になって
アプリア(イタリア)で暮らしていた間、摂政として実権を握っていた人でした。
タンクレッドはボエモン1世が亡くなった翌年の1112年に亡くなったのですが
その前に妻のセシルとトリポリ伯ポンスを婚約させて持参金に領地まで与えています。
若い(15歳!)未亡人を不憫に思ってのことでしょうか?
それともアンティオキアの安泰を願ってのことでしょうかね?
なんたってボエモン2世は4歳ですから、後ろ盾を増やしておきたかったのかもしれません。
アンティオキアやイェルサレム、ニカイアなどは
キリスト教国が十字軍遠征の際に建国した国です。
気を抜いてるとトルコとかビザンツ帝国に狙われてしまうのでね。
二人が暮らしていたトリポリ(リビア)も同じような境遇で
1133年には夫ポンスがイスラム教国軍に包囲されてしまいました。
この時セシルは異父兄イェルサレム王フルク5世に助けを求めました。
一時は包囲が解かれたものの、4年後に再び包囲されポンスは亡くなります。
セシルは1145年に亡くなり聖墳墓教会(イェルサレム)に葬られました。
国内旅行さえままならない時代に、文化も気候も風景も全く違う国へ、
しかも二度と帰って来れる見込みがなさそうな状況で、しかも9歳で嫁ぐって
想像しただけでものすごく可哀想…
王女の人生って、古い時代にいけばいくほど過酷なような気がしてます。
影は薄いが家系図は賑やか
ルイ6世王女 コンスタンス・ド・フランス
ブローニュ伯ウスタシュ4世夫人/トゥールーズ伯レーモン5世夫人
1124〜1176
ルイ6世とアデル・ド・サヴォワには8人のお子様が生まれていますが
王女はコンスタンスひとりでだけです。
18歳でイングランド王スティーヴンの王子ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚しました。
ウスタシュは1153年に突然亡くなってしまいまして
翌年、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚しました。
子供は4人生まれたんですが、1165年に血縁関係が近すぎるという理由で
教会から離婚を宣言されてしまいました。
近いったってさぁ〜、結婚から12年もたって言われましても…って気がしない?
ちなみにレーモンはコンスタンスより10歳年下なんですよね。
愛妾がいたようで1192年に娘が生まれてます。
当時の教会の「血縁によるうんぬんかんぬん…」という離婚理由は
けっこういい加減なのよね、いとこ同士とかおじと姪の結婚なんか腐るほどあるし。
権力とか寄付金とかに、かなり左右されていたんじゃないかと… (ひとり言)
コンスタンスは1176年に亡くなりました。
(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)