スウェーデン王室でただひとりりの公妾(らしい)
ヘドヴィク・ウルリーカ・トーベ
1714〜1744/愛妾 1731〜1744
フレデリク1世は、もともとスウェーデン王家の人ではなくて
お妃のウルリーカ・エレオノーレのおかげで王様になった人でございます。
60歳になろうかというのに女性関係の悪評が高まる一方のフレデリク1世が目を留めた時
ヘドヴィクは16歳でした。 そりゃあ嫌がりますよね。
ヘドヴィクは、ドイツ系の貴族エドヴァルド・ドーヴェの娘さんなのですが
一家はその時ギャンブルの借金に頭を痛めておりました。
そんなわけで、ここからヘドヴィクに対する大説得作戦が始まります。
はしょるけど…
まずは宮廷の役人たちが、愛妾とはどういうものか理解できて決心するまで
王妃の侍女として宮廷に入ってはどうか? と申し入れてきます。
また、王と家族の共通の知人たちがヘドヴィクの家族の説得にあたりました。
Carl Tersmedenという人は、彼女と家族の輝かしい未来について演説し
貴婦人たちが訪れ、ヘドヴィクが宮廷に上がれば彼女の母も姉妹も淑女の仲間入り!と
口々に(うるさそう)言いくるめようとしました。
とうとうヘドヴィクは根負けしてしまいまして、家族への恨みつらみの言葉を残し
宮廷へと向かいました。
お約束どおり王妃の侍女になったヘドヴィクは、すぐに愛妾になったようです。
1733年に娘を生みましたが翌年亡くしました。
その後ヘッセンシュタイン伯爵の称号と宮殿を与えられ公妾になりました。
スウェーデン王家にはその前にも後にも公妾になった愛妾はいなくて
ヘドヴィクはスウェーデンで唯一の公妾と言われています。 名誉なんだか不名誉なんだか…
ヘドヴィクが公妾になったことはスウェーデンで大スキャンダルになりました。
まずはヘドヴィクを紹介された王妃ウルリーカが、体調不良を理由に部屋に引き蘢ります。
聖職者たちは “ 二人の妻を持つ王 ” に臣従の礼を払うことを拒否しました、
世論は王家の血をひき敬虔な王妃に同情的で、ストックホルムには風刺画があふれました。
ヘドヴィク自身は「しめしめ」と思っていたのかというとそうではなく
宮廷へやって来た時同様、フレデリク1世の愛妾でいるのは不幸だと思っていて
王妃との衝突を避けるため宮廷に顔を出すのはやめました。
そのかわり自分の宮殿に、王妃に匹敵するサロンを開いて芸術家たちを招いていました。
政治家がヘドヴィクの力を利用しようとしたこともありましたが
彼女は公妾という自分の立場が大嫌いで、協力を拒みました。
議会は、王が前代未聞の公妾を持ったことに激怒して何度も議会を開き
王妃はヘドヴィクの息子二人を国外追放にしてほしいと主張しました。
フレデリク1世っておバカなのかなぁ?
不穏な空気を感じていたのか、 “ 私の死後はヘドヴィクたちをよろしく ” という
主旨の手紙をその王妃に送ってるんですよね! 聞いてくれるわけないじゃんね!!
結局ヘドヴィクと息子たちはヘッセンに送られることになりましたが
ヘドヴィクはこっそりニュヒェーピングで暮らして「狩りに行く」と言ってやってくる
フレデリク1世と会っていました。
これは王妃にバレて、またまた部屋に閉じこもったりしましたが
ヘドヴィクはスウェーデンに居続けました。
ヘドヴィクは、愛妾はいやだったけどフレデリク1世のことは好きだったのかしら?
それとも息子たちのために耐え続けていたのかしら?
1744年、ヘドヴィクは四度目の出産の時に亡くなりました。 30歳でした。
16歳の娘をよってたかって甘い言葉で誘っておいて、やってきたら辛い目にあわせるなんて
なんなんだよー!! なんだかすごく可哀想… 本当は同じぐらいの年の青年と結婚して
普通の貴婦人として過ごしたいっていうタイプの人だったんじゃないの?
自分の意志じゃないのにこんなに嫌われ者になっちまって…
愛妾になりたいという女性もけっこういただろうから、そういう人を選べばいいのにね!
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
北欧といえば!の武田龍夫先生による一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
ヘドヴィク・ウルリーカ・トーベ
1714〜1744/愛妾 1731〜1744
フレデリク1世は、もともとスウェーデン王家の人ではなくて
お妃のウルリーカ・エレオノーレのおかげで王様になった人でございます。
60歳になろうかというのに女性関係の悪評が高まる一方のフレデリク1世が目を留めた時
ヘドヴィクは16歳でした。 そりゃあ嫌がりますよね。
ヘドヴィクは、ドイツ系の貴族エドヴァルド・ドーヴェの娘さんなのですが
一家はその時ギャンブルの借金に頭を痛めておりました。
そんなわけで、ここからヘドヴィクに対する大説得作戦が始まります。
はしょるけど…
まずは宮廷の役人たちが、愛妾とはどういうものか理解できて決心するまで
王妃の侍女として宮廷に入ってはどうか? と申し入れてきます。
また、王と家族の共通の知人たちがヘドヴィクの家族の説得にあたりました。
Carl Tersmedenという人は、彼女と家族の輝かしい未来について演説し
貴婦人たちが訪れ、ヘドヴィクが宮廷に上がれば彼女の母も姉妹も淑女の仲間入り!と
口々に(うるさそう)言いくるめようとしました。
とうとうヘドヴィクは根負けしてしまいまして、家族への恨みつらみの言葉を残し
宮廷へと向かいました。
お約束どおり王妃の侍女になったヘドヴィクは、すぐに愛妾になったようです。
1733年に娘を生みましたが翌年亡くしました。
その後ヘッセンシュタイン伯爵の称号と宮殿を与えられ公妾になりました。
スウェーデン王家にはその前にも後にも公妾になった愛妾はいなくて
ヘドヴィクはスウェーデンで唯一の公妾と言われています。 名誉なんだか不名誉なんだか…
ヘドヴィクが公妾になったことはスウェーデンで大スキャンダルになりました。
まずはヘドヴィクを紹介された王妃ウルリーカが、体調不良を理由に部屋に引き蘢ります。
聖職者たちは “ 二人の妻を持つ王 ” に臣従の礼を払うことを拒否しました、
世論は王家の血をひき敬虔な王妃に同情的で、ストックホルムには風刺画があふれました。
ヘドヴィク自身は「しめしめ」と思っていたのかというとそうではなく
宮廷へやって来た時同様、フレデリク1世の愛妾でいるのは不幸だと思っていて
王妃との衝突を避けるため宮廷に顔を出すのはやめました。
そのかわり自分の宮殿に、王妃に匹敵するサロンを開いて芸術家たちを招いていました。
政治家がヘドヴィクの力を利用しようとしたこともありましたが
彼女は公妾という自分の立場が大嫌いで、協力を拒みました。
議会は、王が前代未聞の公妾を持ったことに激怒して何度も議会を開き
王妃はヘドヴィクの息子二人を国外追放にしてほしいと主張しました。
フレデリク1世っておバカなのかなぁ?
不穏な空気を感じていたのか、 “ 私の死後はヘドヴィクたちをよろしく ” という
主旨の手紙をその王妃に送ってるんですよね! 聞いてくれるわけないじゃんね!!
結局ヘドヴィクと息子たちはヘッセンに送られることになりましたが
ヘドヴィクはこっそりニュヒェーピングで暮らして「狩りに行く」と言ってやってくる
フレデリク1世と会っていました。
これは王妃にバレて、またまた部屋に閉じこもったりしましたが
ヘドヴィクはスウェーデンに居続けました。
ヘドヴィクは、愛妾はいやだったけどフレデリク1世のことは好きだったのかしら?
それとも息子たちのために耐え続けていたのかしら?
1744年、ヘドヴィクは四度目の出産の時に亡くなりました。 30歳でした。
16歳の娘をよってたかって甘い言葉で誘っておいて、やってきたら辛い目にあわせるなんて
なんなんだよー!! なんだかすごく可哀想… 本当は同じぐらいの年の青年と結婚して
普通の貴婦人として過ごしたいっていうタイプの人だったんじゃないの?
自分の意志じゃないのにこんなに嫌われ者になっちまって…
愛妾になりたいという女性もけっこういただろうから、そういう人を選べばいいのにね!
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
北欧といえば!の武田龍夫先生による一冊
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