Jarmily Haldovéさん作
歴史的な橋に名を残した王妃
ヴラジスラフ2世妃 ユディタ・ドゥリンスカー
1135〜没年不詳/在位 1158〜1172
ブラジスラフ2世が、前妃ゲルトルーダの死から3年後に再婚したのは
チューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユディタです。
ユディタは、ブラジスラフより15〜20歳ぐらい年下で18歳ぐらいでした。
歴史家によれば、ものすごく美しく、知的で品格があり、ラテン語も話せて
政治的な知識も持ち合せていたようです。
結婚の最大の理由は、ユディタの兄チューリンゲン方伯ルートヴィヒ2世の奥さまが
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサの義理の妹にあたるということ。
どんなに “ 親戚の親戚 ” 的に薄い繋がりでも、もっておきたかっのでしょうね。
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結婚後、2年ぐらいして男の子が誕生しました。
この時ユディタは、二十歳さこそことは思えない世渡り上手ぶりを発揮します。
中世では、母親が子供の名前をつけるのが一般的だったそうなのですが、ユディタは息子に
一族の伝説的な創始者である、プシェミスルという名をつけようと考えました。
(オタカル1世の正式名称は、プシェミスル・オタカル です)
貴族たちや国民たちの♥をつかみそうなアイデアですね!
やはり神聖ローマ皇帝を手に入れる一家の出、女性も帝王学を学ぶのかもしれません。
ブラジスラフの不在中は、君主の代理を務めるほどの手腕だったようです。
そんなユディタなのですが、1158年にブラジスラフが王になった後も
王妃として戴冠したという記録がないんだって!
ブラジスラフ2世の治世中、ヴルタヴァ川の橋の建設が始まりました。
これは中世初の石造りの橋で、ユディタ橋と呼ばれていました。
この橋は1342年に洪水で流され、1357年に神聖ローマ皇帝カール4世が再建
現在はカレル橋として有名です。
夫を支えてきたユディタですが、継承争いでは意見がわかれました。
ユディタはオタカルを強く推しましたが
ブラジスラフは前妻ゲルトルーダとの息子ベジドフを指名しました。
ま、長男ですからしかたないか…
1172年、ヴラジスラフ2世が退位すると、一緒にチューリンゲンへ亡命しました。
ユディタには里帰りになりますね。
2年後、ヴラジスラフはドイツ・ザクセン州のメラーネで亡くなります。
残念なことに、ユディタがいつ、どこで亡くなったのかは知られていませんが
息子オタカルの治世まで生き延び、1210年に75歳で亡くなったという説があります。
1160年頃にユディタがチェコのテプリツェに設立した
ベネディクト派の修道院に埋葬されているのが、後に見つかっています。
ヴラジスラフ2世の王子たちは、どちらもハンガリーの王女たちと結婚してますね。
ハンガリー、よっぽど味方にしときたかったんだろうか?
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橋の名前にまでなった王妃の没年がわからないとは… 亡命した王一族の悲哀が感じられます。
せめて墓所だけでもわかってよかったですね。
でもヴラジスラフ2世の墓所はプラハのストラホフ修道院で、二人は別々なの。
こちらはヴラジスラフ2世が設立したものです。
(参考文献 沼野充義氏『中欧』 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
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行って来ましたよ! 東京ドームの BIGBANG JAPAN DOME TOUR 2017 LAST DANCE
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ファンミからの ステージ
1日BIGBANGを楽しんで来ました。 席はアリーナの真ん中後方付近で、サブステが真上を通るとこ!
4人を近くで見られたよ〜!! スタンドのはしからはしまで一杯の東京ドーム中が大興奮でした
でも最後は号泣… 京セラにもハワイのテソンのイベントにも行けないわたしは、本当に見納めになっちゃうの…?
去り際の「また会えるよ」という言葉がグッときました
歴史的な橋に名を残した王妃
ヴラジスラフ2世妃 ユディタ・ドゥリンスカー
1135〜没年不詳/在位 1158〜1172
ブラジスラフ2世が、前妃ゲルトルーダの死から3年後に再婚したのは
チューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユディタです。
ユディタは、ブラジスラフより15〜20歳ぐらい年下で18歳ぐらいでした。
歴史家によれば、ものすごく美しく、知的で品格があり、ラテン語も話せて
政治的な知識も持ち合せていたようです。
結婚の最大の理由は、ユディタの兄チューリンゲン方伯ルートヴィヒ2世の奥さまが
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサの義理の妹にあたるということ。
どんなに “ 親戚の親戚 ” 的に薄い繋がりでも、もっておきたかっのでしょうね。

結婚後、2年ぐらいして男の子が誕生しました。
この時ユディタは、二十歳さこそことは思えない世渡り上手ぶりを発揮します。
中世では、母親が子供の名前をつけるのが一般的だったそうなのですが、ユディタは息子に
一族の伝説的な創始者である、プシェミスルという名をつけようと考えました。
(オタカル1世の正式名称は、プシェミスル・オタカル です)
貴族たちや国民たちの♥をつかみそうなアイデアですね!
やはり神聖ローマ皇帝を手に入れる一家の出、女性も帝王学を学ぶのかもしれません。
ブラジスラフの不在中は、君主の代理を務めるほどの手腕だったようです。
そんなユディタなのですが、1158年にブラジスラフが王になった後も
王妃として戴冠したという記録がないんだって!
ブラジスラフ2世の治世中、ヴルタヴァ川の橋の建設が始まりました。
これは中世初の石造りの橋で、ユディタ橋と呼ばれていました。
この橋は1342年に洪水で流され、1357年に神聖ローマ皇帝カール4世が再建
現在はカレル橋として有名です。
夫を支えてきたユディタですが、継承争いでは意見がわかれました。
ユディタはオタカルを強く推しましたが
ブラジスラフは前妻ゲルトルーダとの息子ベジドフを指名しました。
ま、長男ですからしかたないか…
1172年、ヴラジスラフ2世が退位すると、一緒にチューリンゲンへ亡命しました。
ユディタには里帰りになりますね。
2年後、ヴラジスラフはドイツ・ザクセン州のメラーネで亡くなります。
残念なことに、ユディタがいつ、どこで亡くなったのかは知られていませんが
息子オタカルの治世まで生き延び、1210年に75歳で亡くなったという説があります。
1160年頃にユディタがチェコのテプリツェに設立した
ベネディクト派の修道院に埋葬されているのが、後に見つかっています。
ヴラジスラフ2世の王子たちは、どちらもハンガリーの王女たちと結婚してますね。
ハンガリー、よっぽど味方にしときたかったんだろうか?

橋の名前にまでなった王妃の没年がわからないとは… 亡命した王一族の悲哀が感じられます。
せめて墓所だけでもわかってよかったですね。
でもヴラジスラフ2世の墓所はプラハのストラホフ修道院で、二人は別々なの。
こちらはヴラジスラフ2世が設立したものです。
(参考文献 沼野充義氏『中欧』 Wikipedia英語版)


行って来ましたよ! 東京ドームの BIGBANG JAPAN DOME TOUR 2017 LAST DANCE


ファンミからの ステージ
1日BIGBANGを楽しんで来ました。 席はアリーナの真ん中後方付近で、サブステが真上を通るとこ!
4人を近くで見られたよ〜!! スタンドのはしからはしまで一杯の東京ドーム中が大興奮でした
でも最後は号泣… 京セラにもハワイのテソンのイベントにも行けないわたしは、本当に見納めになっちゃうの…?
去り際の「また会えるよ」という言葉がグッときました