語りつがれる愛の物語の主人公…からの、やり手ばーさま
ヤコブ・デ・ラ・ガルディエ伯夫人 エバ・ブラーエ
1596〜1674/愛妾 1613〜1632
たいへんご無沙汰しておりました。
7月末のスペシャルファンイベント&SMTOWN ライヴビューイング2Daysのあと
虚脱状態に陥って何もしたくない日が続いておりました。 あぁ…オニュ…
その後は暑さに負けて(パソコンがある部屋に冷房がないのですぅ…)
そして法事・帰郷があり、先週久々にパソコンを立ち上げたらネットが繋がらない状態に
“ キーーーーッ ” となって放置してしまいました。
おととい旦那さんが「どれどれ」と直してくれて、やっとアップにこぎつけます。
言い訳オンパレード…お許し下さい。
コメントもたくさんいただいていたのに、お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
この場をかりてお詫び申し上げます。
スウェーデン愛妾シリーズを続けてまいりますね。
“ 北方の獅子 ” と呼ばれたグスタフ2世アドルフには
マリア・エレオノーラ・アヴ・ブランデンブリという、強烈な王妃がおりましたが
実は結婚前から愛し合っていた女性エバ・ブラーエがおりました。
エバの父親はスウェーデンの貴族で議会員でもあったマグヌース・ブラーエです。
家柄はけっして悪くないので、母親が亡くなった後、15歳の時に
王大后クリスティーナ・アヴ・ホルステイン=ゴットルプの侍女として宮廷に入りました。
そして16歳の時、19歳の若き王グスタフ2世の恋人になりました。
二人がやりとりしたお手紙によると、二人の交際は真剣なものでした。
当時グスタフ2世には祖母とかおばとか、親戚中から縁談が持ち込まれていました。
しかし摂政をしていた王大后クリスティーナは、政治的に有利な縁談を考えて
持ち込まれた結婚話しを拒否していました。
一方、グスタフ2世とエバは、お互い結婚を望んでいました。
王大后とグスタフ2世とエバは、結婚について1615年まで議論していましたが
最終的にはエバが「私はいまのままでも幸せです」ってな感じで
グスタフ2世とは公式に結婚できないということを受け入れました。
ここまでだと、デンマーク王フレデリク2世の恋人アンナ・アフ・ハルデンベルグと同じように
お若い二人の身分違いによる悲恋の物語なんですけどね。
1618年、エバはヤコブ・デ・ラ・ガルディエ伯と結婚しました。
グスタフ2世は1620年にマリア・エレオノーラと結婚しました。
けれども二人の関係はグスタフ2世が亡くなる1632年まで続いていました。
それどころかグスタフ2世は、王妃マリア・エレオノーラの愛情攻撃にうんざりした時に
王妃と別れてエバと再婚しようかな? なんて考えてます。
ただ、エバとガルディエ伯は仲が良かったみたいです。
グスタフ2世亡き後は夫と平穏に暮らしていたみたいですが、夫が亡くなると
スウェーデン国内の重要な地方都市をいくつも抱える、精力的な領主になりました。
また、グスタフ2世の王女である女王クリスティーナから
フィンランドにヤコブスタードという都市を建設する許可をもらっています。
エバは多くの領地の管理だけでなく、さらに領地を増やしていきました。
特に有名なのは、1658年にスウェーデン領になって多くのデンマーク貴族が手放した
スコーネ一帯の土地がありました。
エバは宮廷でも一目置かれる存在で、女王にまで影響力がありました。
宮廷では “ Business woman ” と(影で?)呼ばれていたらしく、直訳したら実業家ですけど
「やり手だよね〜」ってな感じで語られていたんじゃないでしょうーか?(勝手な想像)
一時期、エバが魔術を使って女王を結婚させないようにしている!と唱えた人がいましたが
宮廷の貴婦人たちがこれを阻止し、相手を反逆罪に!と糾弾しました。
エバに心酔していたのか、恐れていたのかは不明… お金借りてたのかもね。
エバと旦那さんのヤコブは14人の子だくさんでしたが
この中にはグスタフ2世の子はいないということです。
この点は旦那さん一筋、と褒めてよいのかどうか…
ヤコブの死から22年後の1674年に亡くなりました。
ヤコブが亡くなった当時の喪服のエバ このあたりからやり手さんに…?
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
北欧といえば!の武田龍夫先生による一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
ひとことお土産コーナー
法事で京都に行きまして “ こたべ ” というのを見つけて、箱の可愛らしさに抹茶とにっきを買ってみた!
どうやら季節ごとに箱が変わるらしく、秋のもすごくカワイイの!
9月から販売らしいのだけど京都府内とネットでしか売ってないらしく、送料がけっこう高くて迷ってます
ヤコブ・デ・ラ・ガルディエ伯夫人 エバ・ブラーエ
1596〜1674/愛妾 1613〜1632
たいへんご無沙汰しておりました。
7月末のスペシャルファンイベント&SMTOWN ライヴビューイング2Daysのあと
虚脱状態に陥って何もしたくない日が続いておりました。 あぁ…オニュ…
その後は暑さに負けて(パソコンがある部屋に冷房がないのですぅ…)
そして法事・帰郷があり、先週久々にパソコンを立ち上げたらネットが繋がらない状態に
“ キーーーーッ ” となって放置してしまいました。
おととい旦那さんが「どれどれ」と直してくれて、やっとアップにこぎつけます。
言い訳オンパレード…お許し下さい。
コメントもたくさんいただいていたのに、お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
この場をかりてお詫び申し上げます。
スウェーデン愛妾シリーズを続けてまいりますね。
“ 北方の獅子 ” と呼ばれたグスタフ2世アドルフには
マリア・エレオノーラ・アヴ・ブランデンブリという、強烈な王妃がおりましたが
実は結婚前から愛し合っていた女性エバ・ブラーエがおりました。
エバの父親はスウェーデンの貴族で議会員でもあったマグヌース・ブラーエです。
家柄はけっして悪くないので、母親が亡くなった後、15歳の時に
王大后クリスティーナ・アヴ・ホルステイン=ゴットルプの侍女として宮廷に入りました。
そして16歳の時、19歳の若き王グスタフ2世の恋人になりました。
二人がやりとりしたお手紙によると、二人の交際は真剣なものでした。
当時グスタフ2世には祖母とかおばとか、親戚中から縁談が持ち込まれていました。
しかし摂政をしていた王大后クリスティーナは、政治的に有利な縁談を考えて
持ち込まれた結婚話しを拒否していました。
一方、グスタフ2世とエバは、お互い結婚を望んでいました。
王大后とグスタフ2世とエバは、結婚について1615年まで議論していましたが
最終的にはエバが「私はいまのままでも幸せです」ってな感じで
グスタフ2世とは公式に結婚できないということを受け入れました。
ここまでだと、デンマーク王フレデリク2世の恋人アンナ・アフ・ハルデンベルグと同じように
お若い二人の身分違いによる悲恋の物語なんですけどね。
1618年、エバはヤコブ・デ・ラ・ガルディエ伯と結婚しました。
グスタフ2世は1620年にマリア・エレオノーラと結婚しました。
けれども二人の関係はグスタフ2世が亡くなる1632年まで続いていました。
それどころかグスタフ2世は、王妃マリア・エレオノーラの愛情攻撃にうんざりした時に
王妃と別れてエバと再婚しようかな? なんて考えてます。
ただ、エバとガルディエ伯は仲が良かったみたいです。
グスタフ2世亡き後は夫と平穏に暮らしていたみたいですが、夫が亡くなると
スウェーデン国内の重要な地方都市をいくつも抱える、精力的な領主になりました。
また、グスタフ2世の王女である女王クリスティーナから
フィンランドにヤコブスタードという都市を建設する許可をもらっています。
エバは多くの領地の管理だけでなく、さらに領地を増やしていきました。
特に有名なのは、1658年にスウェーデン領になって多くのデンマーク貴族が手放した
スコーネ一帯の土地がありました。
エバは宮廷でも一目置かれる存在で、女王にまで影響力がありました。
宮廷では “ Business woman ” と(影で?)呼ばれていたらしく、直訳したら実業家ですけど
「やり手だよね〜」ってな感じで語られていたんじゃないでしょうーか?(勝手な想像)
一時期、エバが魔術を使って女王を結婚させないようにしている!と唱えた人がいましたが
宮廷の貴婦人たちがこれを阻止し、相手を反逆罪に!と糾弾しました。
エバに心酔していたのか、恐れていたのかは不明… お金借りてたのかもね。
エバと旦那さんのヤコブは14人の子だくさんでしたが
この中にはグスタフ2世の子はいないということです。
この点は旦那さん一筋、と褒めてよいのかどうか…
ヤコブの死から22年後の1674年に亡くなりました。
ヤコブが亡くなった当時の喪服のエバ このあたりからやり手さんに…?
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
北欧といえば!の武田龍夫先生による一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
ひとことお土産コーナー
法事で京都に行きまして “ こたべ ” というのを見つけて、箱の可愛らしさに抹茶とにっきを買ってみた!
どうやら季節ごとに箱が変わるらしく、秋のもすごくカワイイの!
9月から販売らしいのだけど京都府内とネットでしか売ってないらしく、送料がけっこう高くて迷ってます